区の特色
墨田区の概要・歴史と産業の推移・地域動向
墨田区の概要
昭和22年(1947年)に北部区域の向島区と南部区域の本所区が合併して現在の墨田区が誕生、墨田川堤の通称"墨堤"の「墨」と"隅田川"の「田」を合わせて「墨田区」と名付けられた。東京都東部に位置し、江東デルタ地帯の一部を占める。面積は13.75平方キロメートル、人口は、昭和38年(1963年)の32万6千人をピークに減少傾向を辿ったが、近年増加傾向に転じ、現在、約26万人を超えて推移中(平成28年現在)。
墨田区の歴史と産業の推移
墨田区は、江戸時代明暦の大火をきっかけに隅田川に両国橋が架けられ、防火対策を中心とした都市復興計画として、武家屋敷や寺社、町家を現在の墨田区南部区域(本所地区)に移転させ区画整理を進め、武家屋敷を中心とする市街となり、江戸の一部として発展してきた。昔から広く人々に親しまれてきた"墨堤の桜""隅田川の花火""両国の相撲"はこの時期に誕生。
この時代から、職人や商人の移住により日用品の製造販売が始まり、明治の近代化では、殖産興業政策により近代軽工業発祥の地となった。鐘ヶ淵紡績(後のカネボウ)、花王、朝日麦酒(後のアサヒビール)、精工舎(後のセイコー)などの大工場の立地とともに中小零細規模の繊維、化学などの雑貨工業や機械・金属、出版・印刷などの工業が発展し、一大工業集積を形成するに至る。
戦後の復興から高度成長期へと都市化が進展し、昭和45年(1970年)には工場数9,703とピークを迎え、繊維産業をはじめ、金属・機械などの生産拠点として活況を呈した。
現在でも、東京23区で3番目に多い製造業数を誇り、区内産業構成でも製造業が22.5%を占め(東京都平均8.0%)、ものづくりの街として存立しているが、大工場の区外移転や後継者不足などにより、現在、ピーク時の半数以下にまで減少し、産業の発展の礎であったものづくりの街としての基盤が崩れつつある。後継者難や大型店の進出により商店街も規模の縮小が続いており、事業承継が喫緊の課題。
これからの地域動向
昨今、墨田区においては製造業の減少が進んでおり、区役所の調査によると後継者の不在等により、区内製造業者の約1割が将来、廃業する意思を示している。これまで区内産業を支えてきた製造業者の減少は墨田区にとって今、大きな懸案事項となっており、その解決に向けた方策の策定が喫緊の課題となっている。
その一方、工場跡地等へのマンションやオフィスビル、商業施設等の建設も進んでおり、「錦糸町」「押上」「曳舟」の各駅周辺では再開発も進んでいる。
また、平成24年5月に開業した「東京スカイツリー」は都内有数の観光名所となり、区内への観光客誘致と墨田区の知名度向上において非常に大きな効果をもたらしている。さらに平成28年11月には「すみだ北斎美術館」が開館し、今後一層の観光客増加が見込まれている。一方で観光客の区内回遊の推進が課題となっており、今後も行政と区民・区内事業者が一丸となり、来訪者の回遊性を高めたまちづくりを推進し、「国際観光都市すみだ」の実現へ向けた総合的な地域振興策に、より積極的に取り組んでいく必要がある。