口語訳
会頭(男爵渋沢栄一君)
皆様のご決議なさった祝意を有り難くお受けいたします。この身に余るご厚意に対しまして、一言御礼の言葉を述べさせて頂きたいと存じますので、どうぞ皆様ご着席下さい。このような場所から申し上げるのは非常に失礼とは存じますが、皆様が御聞取りやすいように、失礼ながらこの場所から御答辞を述べさせて頂きます。本日は、当商業会議所において臨時会議が開かれ、私がこのたび思いがけず爵位を授与されましたことを祝して、皆様の心の込められた祝辞を頂戴いたしました。その祝辞の内容は、只今副会頭の中野武営様よりご朗読下さいまして、謹んで拝聴申し上げました。皆様がこの無能な私をお捨て置きにならず、これ程まで丁重に私の光栄をお祝い下さることに対しましては厚く感謝申し上げる次第でございます。この様な喜ばしい最も記念すべき時ですから一言ご答辞を申し上げなければならないと考えていますが、皆様も御承知の通り、私は既に六十歳を過ぎた人間でございますから、色々なことも経験してきました。此処に至るまでには私の個人的な意見も多少は心に抱いており、
又経済界に対する希望も一つや二つではございませんでした。今ここで感謝の気持ちを申し上げるに際しまして、話は長くなりますが、それらの内容をお話し申し上げたいと存じますのでご清聴の程、よろしくお願い申し上げます。もともと私はこの東京の武蔵国榛沢郡(むさしのくにはんざわぐん)というところで生まれました百姓でございます。本日ご出席の渋沢喜作君とは子供のころからの友達で、御互いに鋤(すき)や鍬(くわ)で農耕をした者同士でございますから、子供のころからの生まれや育ちの事で嘘をつくことは出来ないのでございます。それらのことは暫く置きまして、二十歳前後の頃世の中の事が心配になり、故郷でじっとしていることが出来ず、世間に飛び出したわけですが、その結果今日皆様と此の商業会議所において様々な事を議論をし、又このように光栄を得ることが出来るに至った次第でございます。そもそも当初は所謂(いわゆる)浪人のようなありさまで、郷里を出発いたし、そのうち京都にたどり着き、そこで現在は巣鴨にいらっしゃいます徳川従一位(じゅういちい)、即ち一橋公に仕えました。そこに至るまでの経緯も色々あったわけでございますが、その話も長くなりますので横において置きまして、次に一橋公が徳川の本家を相続されることとなり、私もそれについて徳川家に移り、やがて海外に行って明治維新の時に日本に帰ってきました。帰って来てみると、当初は尊王攘夷という事が私共が郷里を出る時の目的であったのですが、其の「尊王」ということは非常に進められていた一方で、
「攘夷」という事に付いては全く反対になっていました。私もそれ以前から海外に行ったぐらいですから、当初抱いていた「攘夷」の考えが間違っていたことは分かってはいましたし、不幸にして旧幕府の体制がすでに時代に合わなくなってきているため革命的に変えなければならないという考えは間違っていた訳ではないものの、自分はそのために何の成果を出すこともなく、全て他人の力によって維新が行われたわけです。従いまして、私の立場はいわゆる「喪家の狗(そうかのいぬ)」のように自分の考えを抱きながらそのまま埋没してしまうという最も不幸な境遇であったと申し上げなければなりません。従いまして、ヨーロッパから帰国すると、私は徳川家の家臣であるため駿河に行き百姓に戻ろうと考えました。明治元年に駿河に行き慶喜公の近辺で農業に従事して余生を楽しむつもりで居ました所、予期せず翌年朝廷から声がかかり大蔵省に呼び出されました。これが私が世間の風に当たることとなった第二期であったと申し上げてよろしいかと思います。しかしながらもともと学んだことといえば、わずかに十八史略や史記や漢書などで外には四書五経位でしかありませんでした。学問と申し上げるのもお恥ずかしい次第です。又ヨーロッパに行っていたと申しましても、フランス語の「ウィ」と「ノン」とが分かる程度でとても学問などと言えるようなものではありません。そのようにわずかな勉強しかしていないうえ、才能すら乏しい訳ですから
明治政府にお仕えしても果たして世のお役に立つことが出来るのだろうかという懸念を抱いていました。それよりは寧ろ最初に考えていた通り駿河で自然の景色を楽しんだ方がよいのではないかとまで思ったりしましたが、時勢がなかなか思う通りにさせてくれません。丁度四年程政府に居て、明治六年の五月になってようやく政府の仕事を辞めることが出来た次第です。明治政府にお勤めしていた間に私が考えたのは、国はこのように開けて物事は次第に進歩していくけれど、政治に関する物事が進歩するのに比べ商工業面の進歩は非常に遅い。此の事は国として大いに心配すべきことではないだろうか。当初私が革命的な考えを持っていた頃には、身に着けた学問も少なく、才能や知識も乏しかったにもかかわらず、場合によっては天下を治めてしまおうというぐらいの気構えがあり、あたかも三尺の剣で天下を治めようという程の実に傍若無人な考えも持ったりしました。
其の頃は、徳川の幕府の政治が腐敗しており、官職も世襲制であり、百姓や町人に対する待遇をみても、全てが的外れなものであった。そのため是は革命を起こさなければ、国を保つことが出来ないという考えを抱くことになったのだが、再度このように新政府に勤めて見ますと、当時私はまだこれ程年老いても居らず、まだ若者であったので
いささか自分自身の学問が不足していることが非常に感じられ、是では我々が世の中で立ち上がって天下を料理しようなどと考えるよりはむしろ自分の実力にあったことをして世の中の役に立つ方が宜しいのではないかという考えを強く感じましたのです。自分の実力にふさわしい事で世の役に立つとは何かと申しますと、先程申した通り政治や教育や軍事というものは日進月歩で、海外の学説や又は人材を輸入することにより益々進歩して行く一方、こと商売や工業に関しましては常に政治につき従う奴隷のような傾向があります。そこで何とかこれを発展させたいという考えを持つに至りました。初めは革命の意志を持ちこの幕府は倒さなければならないと希望したが、今度は商売や工業がこのように軽視されているようでは、この国をなかなか富強国にすることは出来ないと感じたのです。そのように感じてよく見て見ますと、商売人の力が不足しているのみならず、商売人の品格も足りないし、様々な不足が皆備わっている。これでは商売というものが世の中に発達してくることは出来ない。たとえ投機的な生き方をする人が居て、大金持ちになった所で商売人に品格が備わったとは言えない。又海外貿易の上手な人が出てきて、生糸を輸出するとか綿糸を買い入れるという
事業がうまくいったとしても、それで商売の品格が発展したとは言えない。つまり、商売人の凡ての品行や、学問・思想など何もかもが政治家と同様に進展していかなければ商売人の品位又は実力が十分になったとはいえないであろう。又、日本の商売が海外の強国と対抗出来るとは言えないだろうと強く感じました。とはいえ、私はそのような事を私一人で行うことが出来るなどとは思っていませんでした。自分自身頼りにするほどの才能も有りませんでした。しかしながらそのようにへりくだって見ても、ではいったい誰がそれをするのか、その時の商業をしている人々を見渡してみましたが、まず三井組の三野村利左衛門、斎藤純造、永田甚七、又小野組では小野善右衛門、行岡庄兵衛、江林喜兵衛、あるいは京都や大阪にも為替組と呼ばれる豪商があり、そこの番頭さんの中には福の神のような人も居ましたが、そういう人は皆お役人に逢うと畳三枚も離れなければ挨拶すらできないという有様です。これは決して誇張して言っているのではありません。従いまして私は自分が直接身を投じてうまくいくかどうかは分かりませんが、やって見るしかない。私は政治の社会については私自身頼れるほどの才能もないし、又悪い言葉ですが私には生まれ育ちによる社会的な地位もない。但し皆さんは「ノー」と御答になるでしょうが、この家柄による社会的地位がないというのは、非常に悪い言葉ではございますが、実際のところ真実でございます。
そういうことで、御役所勤めをするには、そもそも私自身が世の中のお役に立とうとするには不利なわけですから、結果は二の次としてまずこの商売の世界に身を投じて商業の地位、品格およびその実力を満足いく水準に高めてみたいという覚悟を致しましたのが明治五年頃の事でした。その翌年の明治六年になって、現在でもご懇意にしている井上大蔵大輔が大蔵省を辞任しなければならない状況となり、その時私は大蔵少輔の職位に居て井上大輔を補佐して大蔵省の事務を行っていました。その頃の私に関する政府における評判は、渋沢は温和な男で余り過激な議論もしないし非常に使い易い奴だということで、外からも悪く云われるようなことはありませんでした。その時私は考えたのですが、井上伯爵が辞職して、私が後に残ると、私が行ないたいと希望して居る事がいつ実現できるかわからなくなる。そうなっては困るから、私も井上大輔と同時に辞職しようと決心したため、明治六年の五月には大蔵省の長官と次官が同時に辞職するということになり、当時の官庁はまだ組織も整っておらず、さっぱり秩序もなかったわけですから、今考えても酷いことをしたものだと思いますが、井上伯爵と同時に私も覚悟通り辞表を提出いたしました。当時その筋からも再三にわたり思い止まるように話がありましたが、
決心は変わることはありませんでした。中でも大隈伯爵からは特にいろいろ親切に慰留されましたけれど自分にはどうしてもある考えがあるので了解してもらいたいと主張して辞職したのがもう三十年も昔のこととなりました。さて辞職はしたもののその後の私の身の振り方ですが、当時の私はまだ力もなく、資力に関しては今でも少ないけれど、当時は正に貧乏学生のような状態でした。志は非常に高かったけれど志だけではどうすることも出来ない。まして高山彦九郎や蒲生君平などのように志だけで世間を動かそうとする連中とは異なり商売に関しては志だけではどうしようもない。実際に事業を始め実績を積まなければいけない。ただそれを始めるには、自分には何一つ必要な知識がない。そうした中で一番いいのは銀行だということになって始めました。今日では銀行とはいいところに着目したとほめて下さる方もあるが、それは大きな間違いで、私が銀行に着目したのは私が何も知らなかった証拠であるとしか言えません。
その時に第一銀行を設立いたしましたが、考えて見ますと銀行がひとつあっても、自分の関係のあるところだけは利益を得ることが出来ても、それで日本の事業は事足りるかというとそうは考えられませんでした。
無謀な望みと言われるかもしれませんが、国は小さいし面積も狭いこの日本の商業を発展させ将来は東洋のイギリスといわれるほどにしたいと希望していました。ここに御列席の皆様方もそうであろうと思いますが、日本人の傾向として次第に気位(きぐらい)が高くなってくるものです。私はひたすらそういう考えを持っていましたので、第一銀行の経営さえよければそれでいいという考えをやめているが故にあの事業やこの会社というように、いろいろな経営に心を配る必要が生じ、ついには却って、世間の事業を同時に進歩させるということが出来なかったかもしれないと思います。維新により出来た制度は実に結構なものです。この新制度が遂に世の中の社交の場所にまで及んだのは明治三年頃でした。即ち郡県制度が実施されていなければ、日本の発達はなかったと思われます。ところが郡県制度の実施により諸藩も士族もなくなりました。従来の慣習では、百姓が士族になれば大変喜ばしいことだと故郷の老婆は思った事でしょうが、その考え方がそもそも間違っています。外国には士族の制度がないことを見て、自分も早く士族を返上した方が宜しかろうと思い、士族を返上したのが明治三年でした。その頃は平民を相当賤しんでいて、身分制度の最も下位に置かれていたのは
皆様もご承知の通りですし、士農工商という順序でも分けられています。百姓は武士の次の三級という上の位地に置かれている。私は明治三年に士族を返上いたしました。おそらく士族を返上したのは私が最初ではなかったでしょうか。思ってみますと私の士族としての禄(ろく)がどれほどであったか、又は百円の公債証書を四・五枚位貰えたのかも知れませんが、一切いただきませんでした。又明治六年に官職を辞任致しました時も、私のことを極めて軽率な奴だと批判した人もいました。又辞任を撤回させようとする人もいました。自分自身が商売人になる時には必ず後でいろいろ面倒なことが起きるに違いない。又ある場合にはたとえ自分の不能から生じたこととは言え、役人を辞退したことは良くなかったと言うことが生ずるかも知れない、とまで言う説もありました。そして又軍人にはなれないだろうが体を使ってする官職は何かないのかとも言われましたが、私は純粋の商人になる以上、今後は一切政治に関することには従事しないと考えていました。どうしてそのような覚悟をしたのかといえば、元々私は政治思想は持ってはいるのですが、これを一切謝絶することに致しました。その訳はこれから先に発生してくる国会やそのほかの議会の問題がありますが、そういうことには一切関心を持たないし又自分自身がその問題に首を差し込まないでおこうという決心を
固めていたからです。既に士族を嫌って平民になる事を好んで一旦受けた士族の地位を返上した以上、再度政治の世界に身を投じることはしないだけでなく、政治に関することは聞くこともしないという決心でいたから、朝廷や政府に関係する爵位又は勲章などというものには全く考えにはなかったのです。又逆にそういうものはない方がよいと主張した人間です。しかし明治六年から私のわずかの憂いが功を奏したとは申し上げ兼ねますが、その思い立った時期が適切であったということは胸を張って申し上げることが出来ます。なぜならば、その後次第に商業も発達し、種々の設備も出来、それに関わる人々も増加し、商業の地位も大きく発展して、この商業会議所のようなものも政治同様進歩していくという時代になってまいりました。つまり明治六年における私の決断が少しも間違っていなかったということを今日申し上げることが出来るのはこの上ない喜びでございます。そのように世の中が進んで悦ばしいことではございますが、私自身に関してこのような爵位を頂戴するということは、前にも申し上げた通り私の当初の信念に反するのではないかと懸念しております。商業が世の中で重要視され、商売人が爵位を授けられるというのであれば、それは私も非常に好ましいと思いますが、そう簡単には到達は出来ません。まして自分個人がその対象となろう
などとは夢にも思ってなかったことです。しかしどういう風の吹きまわしか、私がそのような爵位をお受けする立場に至りましたのは、私個人としては光栄としか申し上げられませんが、私の本来の志にとっては大いに悲しむべきことであると申し上げなければなりません。もしこれが私一人の事として論ずるのであれば、余りにも度を越しており、非常に恐れ入りましたと感謝しなければならないけれど、世の中の商工業に対してのものだとすれば、これを以て満足するというわけにはまいりません。なぜならば、私はこの商工業の状況が是だけの地位に進展して来たからこれで良いとは思っていないからです。まだまだ不十分であると申し上げねばなりません。そのようなことで、繰り返しになりますが、私個人に対するものとしては過分であり、商業に対するものとしてはまだ十分とは申し上げられないかも知れません。そして私がこのような栄誉を受けるにあたり、私個人のことは二の次として、本来希望しているのは、つまりこの商業会議所についてです。二十四・五年前から見ますと大層発達してまいりましたし力も付いてまいりました。世の中で重要視されていることも、多くの説明を必要としません。しかしながら皆さんと悲しむべきは、此の商業会議所が世の中に対して大きな勢力を持っているとは申し上げられないのです。
その
理由はただ単に政治社会の人達が善くないからだとのみは申せません。あるいはこのように申し上げている渋沢栄一も、又本日御列席の皆様も商業会議所がまだ世の中から重要視されていないのだということを自ら反省しなければならないと思うのでございます。実際この間、井上角五郎君が話をされていましたが、東京の商業会議所は何はともあれ十一年頃と比較すれば、大きく進歩したのは間違いないし、又その力も強くなったのは間違いない。しかし商工会議所が決議した事については、その決議に様々な注釈を加えなければ世の中では理解されないというのが実情である。つまりは、この決議に注釈を加えなければ世の中に通用しないというのは商業会議所が世の中に対して充分に信用を得ていないという証拠なのである。勢力のある会議とか又はその他にも極めて力の強い会議の決議を発表する場合に、これこれこういう理由でこのような会議を開きましたというようなことは決して言わないイギリスの国会では、このような事を議決したといえばどのような事であれ、世間が注目をするのである。その水準位にこの商業会議所を進展させなければならない。あなたはかなり年は取っているが、もうそれほど長く生きられないとは言わないが、どうか一層東京商業会議所の決議が説明しなくても世間に認められる様に努力していただきたい、と申されました。これは単に個人的な話ではありますが、おっしゃりたいことは至極当然のことで、私
は当初からこの商業会議所をそこまで進めたいという考えを持っていました。但しそこまでに進めるためには、渋沢も老後の力を尽くしますが、渋沢だけでなく満場の皆様が一致協力して進める以外にないと思います。日本の現状では、場合によっては法律というものを重要視しなければならないことがあるかも知れませんが、御互いに知識と才能のある人物を育てていくのが最も必要な事と思います。これまで申し上げてきた内容は、渋沢栄一がこの社会に生まれてから六十一年間の概略をお話して来たのであり、皆様に対して最も感謝しなければならないこの光栄を受けることに至ったのは、私の最初の意見が次第に変化して今日に至ったのだということを申し上げるほかないのでございます。孟子の言葉に「天下に達尊(たっそん)三つあり。爵一つ。齢(よわい)一つ。徳一つ。朝廷は爵に如(し)くは莫(な)し。郷党(きょうとう)は齢(よわい)に如(し)くは莫(な)し。世を輔(たす)け、民(たみ)に長たるは徳に如(し)くは莫(な)し」と。私は明治六年に官職を辞めた時、第一の爵というものは縁を切ったつもりです。しかし商業界を大事に思うがため、とうとう希望しても居ない爵を授与されることとなった。つまり達尊(たっそん)の一つを得たわけです。このことは、商業会議所に対しての私は満足しても、商業会議所としては満足出来ないことでしょう。いや商業会議所の諸君
はこれで満足しないよう私は希望いたします。このように話しますと、まるで私がこの受爵を不満に思うかの如くに感じられるかもしれませんが、私の若かりし頃からの希望がそうであったということを申し上げたまでで、この情けある決定は有り難くお受けいたしますけれども、当初の私の希望には反しているのだということを申し上げているのでございます。ましてや年齢ももはや六十一歳になりましたから、今後は第三の徳を積むことに勉めたいと存じます。
長々とお話してまいりご退屈されたと思います。ご清聴有難うございました。