東商からの重要なお知らせ

東商からの重要なお知らせ

ここにテキストが入ります。ここにテキストが入ります。ここにテキストが入ります。

東商で所蔵する渋沢栄一関連資料

渋沢栄一男爵祝賀演説(東京商業会議所月報/号外付録 明治33年7月刊行)

1900(明治33)年5月18日、渋沢栄一氏が爵位を授かった際の第93回臨時会議議事速記録です。



口語訳

会頭(男爵渋沢栄一君)
皆様のご決議なさった祝意を有り難くお受けいたします。この身に余るご厚意に対しまして、一言御礼の言葉を述べさせて頂きたいと存じますので、どうぞ皆様ご着席下さい。このような場所から申し上げるのは非常に失礼とは存じますが、皆様が御聞取りやすいように、失礼ながらこの場所から御答辞を述べさせて頂きます。本日は、当商業会議所において臨時会議が開かれ、私がこのたび思いがけず爵位を授与されましたことを祝して、皆様の心の込められた祝辞を頂戴いたしました。その祝辞の内容は、只今副会頭の中野武営様よりご朗読下さいまして、謹んで拝聴申し上げました。皆様がこの無能な私をお捨て置きにならず、これ程まで丁重に私の光栄をお祝い下さることに対しましては厚く感謝申し上げる次第でございます。この様な喜ばしい最も記念すべき時ですから一言ご答辞を申し上げなければならないと考えていますが、皆様も御承知の通り、私は既に六十歳を過ぎた人間でございますから、色々なことも経験してきました。此処に至るまでには私の個人的な意見も多少は心に抱いており、
又経済界に対する希望も一つや二つではございませんでした。今ここで感謝の気持ちを申し上げるに際しまして、話は長くなりますが、それらの内容をお話し申し上げたいと存じますのでご清聴の程、よろしくお願い申し上げます。もともと私はこの東京の武蔵国榛沢郡(むさしのくにはんざわぐん)というところで生まれました百姓でございます。本日ご出席の渋沢喜作君とは子供のころからの友達で、御互いに鋤(すき)や鍬(くわ)で農耕をした者同士でございますから、子供のころからの生まれや育ちの事で嘘をつくことは出来ないのでございます。それらのことは暫く置きまして、二十歳前後の頃世の中の事が心配になり、故郷でじっとしていることが出来ず、世間に飛び出したわけですが、その結果今日皆様と此の商業会議所において様々な事を議論をし、又このように光栄を得ることが出来るに至った次第でございます。そもそも当初は所謂(いわゆる)浪人のようなありさまで、郷里を出発いたし、そのうち京都にたどり着き、そこで現在は巣鴨にいらっしゃいます徳川従一位(じゅういちい)、即ち一橋公に仕えました。そこに至るまでの経緯も色々あったわけでございますが、その話も長くなりますので横において置きまして、次に一橋公が徳川の本家を相続されることとなり、私もそれについて徳川家に移り、やがて海外に行って明治維新の時に日本に帰ってきました。帰って来てみると、当初は尊王攘夷という事が私共が郷里を出る時の目的であったのですが、其の「尊王」ということは非常に進められていた一方で、
「攘夷」という事に付いては全く反対になっていました。私もそれ以前から海外に行ったぐらいですから、当初抱いていた「攘夷」の考えが間違っていたことは分かってはいましたし、不幸にして旧幕府の体制がすでに時代に合わなくなってきているため革命的に変えなければならないという考えは間違っていた訳ではないものの、自分はそのために何の成果を出すこともなく、全て他人の力によって維新が行われたわけです。従いまして、私の立場はいわゆる「喪家の狗(そうかのいぬ)」のように自分の考えを抱きながらそのまま埋没してしまうという最も不幸な境遇であったと申し上げなければなりません。従いまして、ヨーロッパから帰国すると、私は徳川家の家臣であるため駿河に行き百姓に戻ろうと考えました。明治元年に駿河に行き慶喜公の近辺で農業に従事して余生を楽しむつもりで居ました所、予期せず翌年朝廷から声がかかり大蔵省に呼び出されました。これが私が世間の風に当たることとなった第二期であったと申し上げてよろしいかと思います。しかしながらもともと学んだことといえば、わずかに十八史略や史記や漢書などで外には四書五経位でしかありませんでした。学問と申し上げるのもお恥ずかしい次第です。又ヨーロッパに行っていたと申しましても、フランス語の「ウィ」と「ノン」とが分かる程度でとても学問などと言えるようなものではありません。そのようにわずかな勉強しかしていないうえ、才能すら乏しい訳ですから
明治政府にお仕えしても果たして世のお役に立つことが出来るのだろうかという懸念を抱いていました。それよりは寧ろ最初に考えていた通り駿河で自然の景色を楽しんだ方がよいのではないかとまで思ったりしましたが、時勢がなかなか思う通りにさせてくれません。丁度四年程政府に居て、明治六年の五月になってようやく政府の仕事を辞めることが出来た次第です。明治政府にお勤めしていた間に私が考えたのは、国はこのように開けて物事は次第に進歩していくけれど、政治に関する物事が進歩するのに比べ商工業面の進歩は非常に遅い。此の事は国として大いに心配すべきことではないだろうか。当初私が革命的な考えを持っていた頃には、身に着けた学問も少なく、才能や知識も乏しかったにもかかわらず、場合によっては天下を治めてしまおうというぐらいの気構えがあり、あたかも三尺の剣で天下を治めようという程の実に傍若無人な考えも持ったりしました。
其の頃は、徳川の幕府の政治が腐敗しており、官職も世襲制であり、百姓や町人に対する待遇をみても、全てが的外れなものであった。そのため是は革命を起こさなければ、国を保つことが出来ないという考えを抱くことになったのだが、再度このように新政府に勤めて見ますと、当時私はまだこれ程年老いても居らず、まだ若者であったので
いささか自分自身の学問が不足していることが非常に感じられ、是では我々が世の中で立ち上がって天下を料理しようなどと考えるよりはむしろ自分の実力にあったことをして世の中の役に立つ方が宜しいのではないかという考えを強く感じましたのです。自分の実力にふさわしい事で世の役に立つとは何かと申しますと、先程申した通り政治や教育や軍事というものは日進月歩で、海外の学説や又は人材を輸入することにより益々進歩して行く一方、こと商売や工業に関しましては常に政治につき従う奴隷のような傾向があります。そこで何とかこれを発展させたいという考えを持つに至りました。初めは革命の意志を持ちこの幕府は倒さなければならないと希望したが、今度は商売や工業がこのように軽視されているようでは、この国をなかなか富強国にすることは出来ないと感じたのです。そのように感じてよく見て見ますと、商売人の力が不足しているのみならず、商売人の品格も足りないし、様々な不足が皆備わっている。これでは商売というものが世の中に発達してくることは出来ない。たとえ投機的な生き方をする人が居て、大金持ちになった所で商売人に品格が備わったとは言えない。又海外貿易の上手な人が出てきて、生糸を輸出するとか綿糸を買い入れるという
事業がうまくいったとしても、それで商売の品格が発展したとは言えない。つまり、商売人の凡ての品行や、学問・思想など何もかもが政治家と同様に進展していかなければ商売人の品位又は実力が十分になったとはいえないであろう。又、日本の商売が海外の強国と対抗出来るとは言えないだろうと強く感じました。とはいえ、私はそのような事を私一人で行うことが出来るなどとは思っていませんでした。自分自身頼りにするほどの才能も有りませんでした。しかしながらそのようにへりくだって見ても、ではいったい誰がそれをするのか、その時の商業をしている人々を見渡してみましたが、まず三井組の三野村利左衛門、斎藤純造、永田甚七、又小野組では小野善右衛門、行岡庄兵衛、江林喜兵衛、あるいは京都や大阪にも為替組と呼ばれる豪商があり、そこの番頭さんの中には福の神のような人も居ましたが、そういう人は皆お役人に逢うと畳三枚も離れなければ挨拶すらできないという有様です。これは決して誇張して言っているのではありません。従いまして私は自分が直接身を投じてうまくいくかどうかは分かりませんが、やって見るしかない。私は政治の社会については私自身頼れるほどの才能もないし、又悪い言葉ですが私には生まれ育ちによる社会的な地位もない。但し皆さんは「ノー」と御答になるでしょうが、この家柄による社会的地位がないというのは、非常に悪い言葉ではございますが、実際のところ真実でございます。
そういうことで、御役所勤めをするには、そもそも私自身が世の中のお役に立とうとするには不利なわけですから、結果は二の次としてまずこの商売の世界に身を投じて商業の地位、品格およびその実力を満足いく水準に高めてみたいという覚悟を致しましたのが明治五年頃の事でした。その翌年の明治六年になって、現在でもご懇意にしている井上大蔵大輔が大蔵省を辞任しなければならない状況となり、その時私は大蔵少輔の職位に居て井上大輔を補佐して大蔵省の事務を行っていました。その頃の私に関する政府における評判は、渋沢は温和な男で余り過激な議論もしないし非常に使い易い奴だということで、外からも悪く云われるようなことはありませんでした。その時私は考えたのですが、井上伯爵が辞職して、私が後に残ると、私が行ないたいと希望して居る事がいつ実現できるかわからなくなる。そうなっては困るから、私も井上大輔と同時に辞職しようと決心したため、明治六年の五月には大蔵省の長官と次官が同時に辞職するということになり、当時の官庁はまだ組織も整っておらず、さっぱり秩序もなかったわけですから、今考えても酷いことをしたものだと思いますが、井上伯爵と同時に私も覚悟通り辞表を提出いたしました。当時その筋からも再三にわたり思い止まるように話がありましたが、
決心は変わることはありませんでした。中でも大隈伯爵からは特にいろいろ親切に慰留されましたけれど自分にはどうしてもある考えがあるので了解してもらいたいと主張して辞職したのがもう三十年も昔のこととなりました。さて辞職はしたもののその後の私の身の振り方ですが、当時の私はまだ力もなく、資力に関しては今でも少ないけれど、当時は正に貧乏学生のような状態でした。志は非常に高かったけれど志だけではどうすることも出来ない。まして高山彦九郎や蒲生君平などのように志だけで世間を動かそうとする連中とは異なり商売に関しては志だけではどうしようもない。実際に事業を始め実績を積まなければいけない。ただそれを始めるには、自分には何一つ必要な知識がない。そうした中で一番いいのは銀行だということになって始めました。今日では銀行とはいいところに着目したとほめて下さる方もあるが、それは大きな間違いで、私が銀行に着目したのは私が何も知らなかった証拠であるとしか言えません。 その時に第一銀行を設立いたしましたが、考えて見ますと銀行がひとつあっても、自分の関係のあるところだけは利益を得ることが出来ても、それで日本の事業は事足りるかというとそうは考えられませんでした。
無謀な望みと言われるかもしれませんが、国は小さいし面積も狭いこの日本の商業を発展させ将来は東洋のイギリスといわれるほどにしたいと希望していました。ここに御列席の皆様方もそうであろうと思いますが、日本人の傾向として次第に気位(きぐらい)が高くなってくるものです。私はひたすらそういう考えを持っていましたので、第一銀行の経営さえよければそれでいいという考えをやめているが故にあの事業やこの会社というように、いろいろな経営に心を配る必要が生じ、ついには却って、世間の事業を同時に進歩させるということが出来なかったかもしれないと思います。維新により出来た制度は実に結構なものです。この新制度が遂に世の中の社交の場所にまで及んだのは明治三年頃でした。即ち郡県制度が実施されていなければ、日本の発達はなかったと思われます。ところが郡県制度の実施により諸藩も士族もなくなりました。従来の慣習では、百姓が士族になれば大変喜ばしいことだと故郷の老婆は思った事でしょうが、その考え方がそもそも間違っています。外国には士族の制度がないことを見て、自分も早く士族を返上した方が宜しかろうと思い、士族を返上したのが明治三年でした。その頃は平民を相当賤しんでいて、身分制度の最も下位に置かれていたのは
皆様もご承知の通りですし、士農工商という順序でも分けられています。百姓は武士の次の三級という上の位地に置かれている。私は明治三年に士族を返上いたしました。おそらく士族を返上したのは私が最初ではなかったでしょうか。思ってみますと私の士族としての禄(ろく)がどれほどであったか、又は百円の公債証書を四・五枚位貰えたのかも知れませんが、一切いただきませんでした。又明治六年に官職を辞任致しました時も、私のことを極めて軽率な奴だと批判した人もいました。又辞任を撤回させようとする人もいました。自分自身が商売人になる時には必ず後でいろいろ面倒なことが起きるに違いない。又ある場合にはたとえ自分の不能から生じたこととは言え、役人を辞退したことは良くなかったと言うことが生ずるかも知れない、とまで言う説もありました。そして又軍人にはなれないだろうが体を使ってする官職は何かないのかとも言われましたが、私は純粋の商人になる以上、今後は一切政治に関することには従事しないと考えていました。どうしてそのような覚悟をしたのかといえば、元々私は政治思想は持ってはいるのですが、これを一切謝絶することに致しました。その訳はこれから先に発生してくる国会やそのほかの議会の問題がありますが、そういうことには一切関心を持たないし又自分自身がその問題に首を差し込まないでおこうという決心を
固めていたからです。既に士族を嫌って平民になる事を好んで一旦受けた士族の地位を返上した以上、再度政治の世界に身を投じることはしないだけでなく、政治に関することは聞くこともしないという決心でいたから、朝廷や政府に関係する爵位又は勲章などというものには全く考えにはなかったのです。又逆にそういうものはない方がよいと主張した人間です。しかし明治六年から私のわずかの憂いが功を奏したとは申し上げ兼ねますが、その思い立った時期が適切であったということは胸を張って申し上げることが出来ます。なぜならば、その後次第に商業も発達し、種々の設備も出来、それに関わる人々も増加し、商業の地位も大きく発展して、この商業会議所のようなものも政治同様進歩していくという時代になってまいりました。つまり明治六年における私の決断が少しも間違っていなかったということを今日申し上げることが出来るのはこの上ない喜びでございます。そのように世の中が進んで悦ばしいことではございますが、私自身に関してこのような爵位を頂戴するということは、前にも申し上げた通り私の当初の信念に反するのではないかと懸念しております。商業が世の中で重要視され、商売人が爵位を授けられるというのであれば、それは私も非常に好ましいと思いますが、そう簡単には到達は出来ません。まして自分個人がその対象となろう
などとは夢にも思ってなかったことです。しかしどういう風の吹きまわしか、私がそのような爵位をお受けする立場に至りましたのは、私個人としては光栄としか申し上げられませんが、私の本来の志にとっては大いに悲しむべきことであると申し上げなければなりません。もしこれが私一人の事として論ずるのであれば、余りにも度を越しており、非常に恐れ入りましたと感謝しなければならないけれど、世の中の商工業に対してのものだとすれば、これを以て満足するというわけにはまいりません。なぜならば、私はこの商工業の状況が是だけの地位に進展して来たからこれで良いとは思っていないからです。まだまだ不十分であると申し上げねばなりません。そのようなことで、繰り返しになりますが、私個人に対するものとしては過分であり、商業に対するものとしてはまだ十分とは申し上げられないかも知れません。そして私がこのような栄誉を受けるにあたり、私個人のことは二の次として、本来希望しているのは、つまりこの商業会議所についてです。二十四・五年前から見ますと大層発達してまいりましたし力も付いてまいりました。世の中で重要視されていることも、多くの説明を必要としません。しかしながら皆さんと悲しむべきは、此の商業会議所が世の中に対して大きな勢力を持っているとは申し上げられないのです。 その
理由はただ単に政治社会の人達が善くないからだとのみは申せません。あるいはこのように申し上げている渋沢栄一も、又本日御列席の皆様も商業会議所がまだ世の中から重要視されていないのだということを自ら反省しなければならないと思うのでございます。実際この間、井上角五郎君が話をされていましたが、東京の商業会議所は何はともあれ十一年頃と比較すれば、大きく進歩したのは間違いないし、又その力も強くなったのは間違いない。しかし商工会議所が決議した事については、その決議に様々な注釈を加えなければ世の中では理解されないというのが実情である。つまりは、この決議に注釈を加えなければ世の中に通用しないというのは商業会議所が世の中に対して充分に信用を得ていないという証拠なのである。勢力のある会議とか又はその他にも極めて力の強い会議の決議を発表する場合に、これこれこういう理由でこのような会議を開きましたというようなことは決して言わないイギリスの国会では、このような事を議決したといえばどのような事であれ、世間が注目をするのである。その水準位にこの商業会議所を進展させなければならない。あなたはかなり年は取っているが、もうそれほど長く生きられないとは言わないが、どうか一層東京商業会議所の決議が説明しなくても世間に認められる様に努力していただきたい、と申されました。これは単に個人的な話ではありますが、おっしゃりたいことは至極当然のことで、私
は当初からこの商業会議所をそこまで進めたいという考えを持っていました。但しそこまでに進めるためには、渋沢も老後の力を尽くしますが、渋沢だけでなく満場の皆様が一致協力して進める以外にないと思います。日本の現状では、場合によっては法律というものを重要視しなければならないことがあるかも知れませんが、御互いに知識と才能のある人物を育てていくのが最も必要な事と思います。これまで申し上げてきた内容は、渋沢栄一がこの社会に生まれてから六十一年間の概略をお話して来たのであり、皆様に対して最も感謝しなければならないこの光栄を受けることに至ったのは、私の最初の意見が次第に変化して今日に至ったのだということを申し上げるほかないのでございます。孟子の言葉に「天下に達尊(たっそん)三つあり。爵一つ。齢(よわい)一つ。徳一つ。朝廷は爵に如(し)くは莫(な)し。郷党(きょうとう)は齢(よわい)に如(し)くは莫(な)し。世を輔(たす)け、民(たみ)に長たるは徳に如(し)くは莫(な)し」と。私は明治六年に官職を辞めた時、第一の爵というものは縁を切ったつもりです。しかし商業界を大事に思うがため、とうとう希望しても居ない爵を授与されることとなった。つまり達尊(たっそん)の一つを得たわけです。このことは、商業会議所に対しての私は満足しても、商業会議所としては満足出来ないことでしょう。いや商業会議所の諸君
はこれで満足しないよう私は希望いたします。このように話しますと、まるで私がこの受爵を不満に思うかの如くに感じられるかもしれませんが、私の若かりし頃からの希望がそうであったということを申し上げたまでで、この情けある決定は有り難くお受けいたしますけれども、当初の私の希望には反しているのだということを申し上げているのでございます。ましてや年齢ももはや六十一歳になりましたから、今後は第三の徳を積むことに勉めたいと存じます。 長々とお話してまいりご退屈されたと思います。ご清聴有難うございました。
原文解読筆写
会頭(男爵渋沢栄一君)
有難ク御決議ノ祝意ヲ拝シマスルデゴザイマス。此ノ忝ジケナイ御厚意ニ対シマシテ一言ノ御答辞ヲ申シ上ゲトウゴサイマスカラ、ドウゾ諸君御着席下サイマシ。此ノ席デ申シ上ゲルノハ甚ダ失礼デゴザイマスケレドモ、御聞キ取リ宜シイヨウニ御免ヲ蒙ツテ此所デ御答辞ヲ仕リマス。今日ハ、当商業会議所ガ臨時会議ヲ開カレマシテ、私ガ此ノ度図ラズモ授爵ノ恩命ヲ得マシタコトヲ祝スル為ニ殊ニ御心ヲ入レラレタル祝辞ヲ下サレマシテ+ゴザイマス。其ノ祝辞ハ唯今副会頭中野武営君ヨリ御朗読下サレテ謹ンデ拝聴仕リマシタ。諸君ガ私ノ無能ヲ棄テサセラレズ、斯ク迄鄭重ニ私ノ光栄ヲ増サシメラレタルハ厚ク感謝致サネバナリマセヌ。斯カル喜バシイ最モ紀念スベキ時ニ於イテ一言ノ御答辞ヲ申シ上ゲネバナラヌト考エマスガ、諸君モ御承知ノ通リ私ハ、六十年ノ星霜ヲ経過シタ人間デゴザイマス。其ノ間ノ経歴モ種々ゴザイマス。其ノ経歴中ニ抱持シ
タ意見モ多少アツタノデゴザイマス。
又商業界ノ未来ニ希望シテ居リマスコトモ、一二ニシテ足ラヌヨウナ訳デゴザイマス。今此ノ感謝ノ意ヲ表スルト共ニ事長ウハゴザイマスケレドモソレ等ノ顛末ヲ申シ上ゲテ清聴ヲ煩ワシトウ存ジマス。元来私ハ此ノ東京ノ在ノ武蔵国榛沢郡ト申ス所デ生マレマシタ百姓デゴザイマス。此ノ席ニ御出ノ同姓喜作氏トハ竹馬ノ友デ、共ニ鋤鍬ヲ以テ耕作ヲ致シタノデゴザイマスカラ、小供ノ生イ立チニモ嘘ハ申サレマセヌノデゴザイマス。ソレ等ノコトハ暫ク措キマシテ、年齢二十歳前後カラ聊カ、世事ニ憂ウル所ガアツテ遂ニ郷里ニモ住居ガ出来マセヌデ世ノ中ニ駈ケ出シタトイウノガ今日諸君ト此ノ商業会議所ニ於イテ共ニ、百事ヲ議シ、又斯カル光栄モ得ラルルノ結果ヲ来シタノデゴザイマス。其ノ初メ所謂浪人体ナル有様デ郷里ヲ出掛ケマシテ遂ニ京都ニ参ツテ唯今巣鴨ニ居ラルル徳川従一位公即チ一橋公ニ仕ヘマシタ。此ノ仕ヘルトイウノモ余程ノ事情カラ起キタコトデ、ソレ等ノ長物語ハ暫ク差シ措キマシテ、続イテ一橋公ガ徳川ノ宗家ヲ相続スルトイウニ付イテ徳川家へ移リ、遂ニ海外へ往キ維新ノ年ニ日本ヘ帰ツタ。帰ツテ見マスルト最初尊王攘夷トイウコトガ私共ノ郷里ヲ出ル時ノ目的デアツタガ、其ノ尊王トイウモノハ大イ
ニ拡張サレタケレドモ、攘夷トイウコトハ丸デ反対ニナツタ。併シ攘夷ニ反対シタトイウハ私モ既ニ其ノ前、海外へ往ツタ位デスカラ、自分ノ初メノ意念ノ誤ツテ居ツタトイウコトヲ知ツタノデスケレドモ、不幸ニシテ旧幕府ノ制度ガ其ノ宣シキヲ失ウテ居ルトイウコトヲ革命的ニ考ヘタ意念ハ誤謬デハナカツタガ、自分ハソレニ向カツテ何等ノ功ヲ奏スルコトモ出来ズ、皆他ノ力ニ依ツテ成功サレタノデ所謂喪家ノ狗ノ如ク空シク其ノ意念ヲ埋没スルトイウ最モ不幸ナル境遇デアツタト申サネバナラヌノデゴザイマス。故ニ欧羅巴カラ帰リマスト私ハ徳川家ノ家人トイウノデ、駿河へ帰耕ヲ致ス考エヲ起コシタ。明治元年ニ駿河ヘ参ツテ慶喜公ノ近辺デ農業ニ従事シテ余生ヲ楽シムトイウ意念デアツタ所ガ、図ラズモ其ノ翌年朝廷ニ召サレテ大蔵省ヘ出マシタノガ再ビ私ガ此ノ娑婆ノ風ニ当ル第二期デアツタト申シテ宜シイノデゴザイマス。併シナガラ元ト学ンダ所ノモノハ僅カニ、十八史略トカ、史記トカ、漢書トカ又一方ニハ、四書五経ト申ス位ノモノデゴザイマス。学問ト申スモ、御恥ズカシイ位ナ次第、又欧羅巴ヘ参ツタト申シタ所ガ仏蘭西語ノ「ウイ」ト「ノー」トガ分カル位ナモノデ、決シテ学問ナドトハ言ヒ得ルコトハ出来マセヌ。左様ナ浅薄ナ学問デアルシ、才能ト雖モ乏
シイノデゴザイマスカラ、明治政府ヘ出テ如何ナル事ヲ行ツテ世ニ補益スルコトガ出来ヨウカトイウノガ私ノ大イニ懸念スル所デアリマシタ。寧ロ、最初考エタ通リ駿河国デ山水ヲ楽シムガ宜シカロウト迄、再ビ思イ直シマシタガ、偖時勢ガ私ニソウイウコトヲ許シマセヌ。丁度四年余リ政府ニ居リマシテ、明治六年ノ五月ニ至リ終ニ官途ヲ辞シマシタ次第デゴザイマス。此ノ官ヲ辞シマス迄ニ自分ガ強ク感ジタノハドウデアルカト申スト、国ハ斯ク開ケテ事物ハ追々進歩シテ往クガ政治的事物ノ進歩シテ往ク割合ニハ、商工業的進歩ハ甚ダ乏シイ。是ハ大イニ国ノ為ニ憂ウベキコトデハアルマイカ。自分ガ最初革命的ノ考エヲ持ツテ居ル時分ニハ、学問モ浅薄、才識モ乏シイニ拘ワラズ、事ニ依ツタラ天下ヲ料理シヨウ位ナ考エハ起コシテ居ツタ。ソレコソ三尺ノ剣ヲ以テ天下ヲ制御セントイウ位ナ誠ニノツバツシノ思案ヲ持チモ、シマシタ。其ノ時ニハ徳川ノ政治ガ腐敗シテ官ヲ世々ニシ、職ヲ世々ニシ、百姓町人ニ対スル待遇ヲ見テモ総テ其ノ当ヲ失シテ居ル。是ハ一ツ革命セネバ国ハ、立タヌトイウ感念ヲ惹起シタノデスケレドモ再ビ斯ク新政府ヘ出マシテ勤メテ見マスルト、マダ其ノ時分ハ今日ノ如ク老イタリトイウデハゴザイマセヌ。極ク壮年ノ際デハアツタガ偖己
レノ力ノ足ラヌ学問ノ乏シイトイウコトガ大イニ感ジラレテ、是ハ吾々ガ中々此ノ世ノ中ニ立ツテ天下ヲ料理スルナドトイウヨウナ意念ヲ持ツヨリハ、寧ロ、我力ニ相応スルコトデ世ヲ益スルガ宜シカロウトイウ感念ヲ強ク起コシマシテゴザイマス。其ノ身ニ相応スルコトデ世ヲ裨益スルトハ何デアロウカト申シマスルト、唯今申シマスル通リ政治トカ教育トカ軍事トカイウヨウナモノハ、日ニ、月ニ、海外ノ学説若シクハ、人才ヲ輸入シテ益々進ンデ往クニ拘ワラズ独リ商売工業トイウモノニ対シテハ始終政治ノ奴隷トナツテ居ル傾キガアル。ドウカ之ヲ進メタイトイウ考エヲ起コシタ。之ガ即チ私ノ第三ノ考エデアリマシタ。初メニハ革命的ノ意念ヲ以テ是非此ノ幕府ハ倒サンケレバナラヌトイウ望ミヲ起コシ、今ハ此ノ商売工業トイウモノガ斯様ナ低イ所ニ居ツテハ、到底国ノ富強ヲ為スコトハ出来ナイトイウコトヲ感ジマシタ。偖左様ニ感ジテ見ルト商売人ノ力ガ足ラヌノミナラズ、品格モ足ラヌ、種々ナル不足ヲ皆備エテ居ル。是デハ商売トイウモノガ世ノ中ニ発達シテ来ルコトハ出来ナイ。縦シ、投機者流ノ人ガアツテ、大金持チニナツタ所デ商売人ニ品格トイウモノガ備ワルトハ言エナイ。又、海外貿易ニ上手ナ人ガ出来テ生糸ヲ輸出スルトカ綿糸ヲ買イ入レルトイウヨ
ウナ事業ガ成立スレバトテ、ソレデ商売ノ品格ガ進ンダトハ申サレナイ。即チ商売人ノ凡テノ品行トイイ、学問トイイ、思想トイイ何モカモ政治家ト相対比シテ進ミ行カナケレバ、ドウシテモ商売人ノ品位、又ハ、実力トイウモノガ十分ニナツタトハ言エナカロウ。又日本ノ商売ガ海外ノ強国ト争ウトイウコトハ出来ヌデアロウト強ク感ジマシタ。私ハ今申ス程ノ事柄ヲ身自ラデ行イ得ルトイウ自惚ハ持チマセナンダ。又、自ラ頼ム程ノ才能モアリマセナンダ。併シ 左様ニ謙退シテ見タ所ガ誰ガソレヲヤルカ、其ノ時ノ商業者ヲ見渡シタ所デ先ヅ三井組デハ三野村利左衛門、齋藤純造、永田甚七、又、小野組デハ小野善右衛門、行岡庄兵衛、江林嘉兵衛、或イハ、京都大阪ニモ為替組ト称スル豪商ガアツテ、其ノ番頭サンニハ、所謂白鼠ノ輩モアリマシタガ、是等ハ、皆、官員ニ逢エバ畳三枚モ隔テネバ挨拶モ出来ヌトイウ有様ダ。是ハ決シテ私ガ今誇言ヲスルノデハアリマセヌ。故ニ、私ハ是非此ノ間ニ己レノ身体ヲ投ジテ成ルカ成ラヌカ、一ツヤツテ見ルヨリ外ハナイ。自分ハ政治社会ニ付テハ自カラ頼ム程ノ才能モナシ、又、之ハ甚ダ言悪イ言葉デ私ガ言ウタヲ諸君ハ「ノウ」ト御答ガアルデシヨウガ、第一ニ門地モナシ、但シ此ノ門地ノナイトイウコトハ余程申シ悪イ口上デスケレドモ真情実話
トシテ申シ上ゲマス故ニ、官途ニ居ルコトハ、私ノ身体ヲシテ此ノ世ニ尽スニ不利益ナ訳デアルカラ、成敗ハ、第二ニ置イテ先ヅ此ノ商売界ニ、身ヲ投ジテ商業トイウモノノ、位地品格及ビ其ノ実力ヲ十分ニ進メテ見タイトイウ覚悟ヲシマシタノガ明治五年頃ヨリノコトデアリマシタ。然ルニ明治六年ニハ、今日モ相変ワラズ御懇意ニシテ居マス井上大蔵大輔ガ大蔵省ヲ辞サンケレバナラヌ場合ニ至リマシテ、其ノ時ニ私ハ、大蔵少輔ノ位地ニ居リマシテ井上大輔ヲ御助ケ申シテ大蔵省ノ事務ヲ扱ツテ居ツタ。而シテ其ノ時分ニ政府部内ノ評ニハ渋沢ハ、寧ロ、温和ナ男デ余リ過激ナ議論ヲセヌ奴ダ、甚ダ使イ易イ人間ダトイウ事デ、別ニ他カラ悪ク言ワレルヨウナコトハナカツタ。ソコデ私ノ考エマスルニハ、今井上伯ガ辞シテ私ガ跡ヘ残リマスルト、私ノ希望ハ何レノ日ニ達シ得ラレルカ分ラヌカラ、私モ共ニ辞職ト決心シタ故ニ、明治六年ノ五月ニハ、大蔵省ノ長次官ガ二人一緒ニ辞ストイウコトニナツテ、其ノ時分ノ官庁トイウモノガ甚ダ粗雑デアツテ、一向秩序ガナカツタトイウ有様ハ、今考エテ見テモ酷イ事ヲシタヨウデゴザイマシタガ、井上伯ガ辞スルト共ニ私モ去ラネバ去ルコトハ出来ヌト覚悟シテ辞表ヲ提出シマシタ。当時其ノ筋ヨリ再三ノ説諭ガゴザイマシタガコレダ
ケハ固ク執ツテ動カナカツタ。殊ニ、大隈伯ナドハ色々ト懇切ニ説諭ナサレマシタガ、ドウシテモ自分ニ考エル事ガアルカラ、辞職ヲ聞キ届ケテモライタイト言ツテ辞シ遂ゲマシタノハ、最早三十年近クノ昔話トナリマシタ。偖辞シハ辞シタガ、是カラ此ノ身体ヲ如何ニ振リ向ケタラ宜シカロウトイウコトニナツタ。其ノ時ノ私ノ一身ハ、甚ダ微力デアツタ。今日モ尚資力トテ少ナイケレドモ、其ノ当時ハ、詰マリ貧乏書生トイウ塩梅デシタ。併シ志ハ頗ル高尚デアツタガ志バカリデハドウモ往カヌ。況ンヤ高山彦九郎、蒲生君平抔ノ如キ志ノミデ世間ヲ横行スル者ト異ナリテ商売ノ方ハ、唯、志ダケデハ往ケナイ。ドウシテモ事業ヲ起コシテ事実ニ挙ゲナケレハ往カヌノデアリマス。所ガ自分ハ何一ツ之ト言ツテ知ツテ居ルコトガナイ。僅カニ、銀行位ガ一番宜シカロウトイウ考エデ従事ヲ致シタ。今日ニナルト銀行トハ宜イ所ヘ着目シタト御褒メナサル方モアルガ、ソレハ大間違イデ、私ガ銀行トイウコトヘ着目シタノハ何ニモ知ラヌ証拠デアルト申シ上ゲル外ナイノデゴザイマス。其ノ時ニ今ノ第一銀行ヲ設立致シマシタガ、私ガ自ラ考エマスルノニ、一銀行ガアツテ己レノ関係スル トコロダケハ、世ノ中ノ利益モ幾分カ進ムコトナルガ、ソレニテ日本ノ事業ハ足ルカト考エルトソウハ思ワレナンダ。此ノ日
本ノ将来ハ其ノ時分カラシテ、無謀ナル望ミト言ワレルカ知リマセヌガ、国ハ小サシ、土地ノ面積ハ狭シ、他日進ンデ商業ヲ盛ンニシテ東洋ノ英吉利トイウマデニ成リ得ルコトニシタイトイウ希望デアリマシタ。御互イニ日本人ノ癖トシテ気位ノ進ンデ来ルノハ私バカリデアルトハ申サレマセヌ。此処ニ御列席ノ方々モ皆ソウデアロウト思イマス。私ハ一図ニソウイウ感念ヲ持ツテ居リマシタカラ、第一銀行ノ営業ガ安全ナレバソレデ宜シイトイウ意念デ止メテ居ラレヌ故ニ、拠ナク彼ノ事業、此ノ会社トイウヨウニ心ヲ用イル必要ガ生ジテ、終ニハ却ツテ世ノ中ノ事業ヲシテ均シク進歩セシムルコトガ出来ナカツタカモ知レヌト私ハ思イマス。維新ノ制度ハ実ニ結構ナモノデアル。此ノ制度上カラシテトウトウ世ノ中ノ社交上ニマデ推シ及ボシタノハ明治三年頃デゴザイマシタ。即チ郡県政治ガ行ワレナケレバ、此ノ国ノ発達ハ期シ難イ。郡県政治ヲ行エバ諸藩モナク士族モナクナル。従来ノ慣習デハ百姓ガ士族ニナツタナラバ、大層、喜バシイト田舎ノ老婆ハ思ウタニ違イナイガ、是ハ抑モ間違イデアル。外国ニ、士族ノ制ガナイコトヲ見テモ、己レモ早ク士族ヲ廃メタラ宜シカロウト思ウテ士族ヲ辞シタノハ明治三年デゴザイマス。其ノ頃ハ平民ヲ余程賤シミマシテ、人類ノ最下
層ニ置イタノハ諸君ノ御承知ノ通リデ、士農工商トイウ順序デモ分ツテ居ル。百姓ハ士トイウ下ノ三級ノ上ノ位置ニ置カレタ者デアル。私ガ明治三年ニ士族ヲ辞シマシタノハ、殆ド士族ヲ廃メタモノノ第一番ト申シ上ゲテ宜シウゴザイマス。思ウニ附属ノ禄ガ何程アツタカ、百円ノ公債証書ヲ四、五枚位貰エタカ知レマセヌガ、一切頂戴致シマセヌ。又明治六年官ヲ辞シマシタトキモ私ハ頗ル軽躁ノ奴ダト誹謗シタ人モアリマシタ。又其ノ再考ヲ忠告サレタ人モアリマシタ。已ニ此ノ商売人ニナルトキニハ必ズ後ニ色々ナコトガ生ズルニ違イナイ。或ル場合ニハ私ノ不能ト雖モ役人ヲ辞退シタノハ宜シクナイトイウコトガ生ズルカモ知レヌトイウ説マデモアリマシタ。又軍人ニハナレヌダロウガ、其ノ他ノ事務ニハ私ノ身体ヲ用イルコトガ果タシテ出来ヌカト言ワレマシタガ、其ノ時ニ自分ハ順然タル商売人ニナル以上ハ何処マデモ政治ニ関係スルコトハ一切従事セヌト、コウイウヨウニ考エマシタ。何デソウイウ覚悟ヲ極メタカトイウニ、元来私ハ政事思想ハ持ツテ居ルノデス。之ヲ断然謝絶致シマシタ。其ノ訳ハ之カラ先キニ起キテ来ル、例エバ国会、或イハ其ノ他ノ議会トイウヨウナモノガアル。総テソウイウコトニハ心ヲ用イヌ。又身ヲ其ノ位置ニ投ゼヌトイウダケハ堅ク覚悟セネバナラヌトイ
ウコトハ私ガ其ノ時ニ定メマシタ意見デアル。既ニ士族ヲ嫌イ平民タルコトヲ好ンデ一旦受ケタ士族ヲモ辞シタ上ハ又再ビ政治界ニ身ヲ投ズル抔トイウコトハセヌノミナラズ、其ノ事ニ付イテハ之ヲ聴クコトモセヌトイウ決心デアリマスカラ、朝廷若シクハ政府ニ属スル爵位勲章ナドトイウモノハ真実思イニゴザイマセヌノデス。又ソウイウコトハ必ズナイガ宜シイト主張シタ者デゴザイマス。併シ明治六年カラシテ私ノ微哀ガ与カツテ力アリトハ申シ上ゲ兼ネマスガ、 其ノ期念ガ適当デアツタトイウコトハ立派ニ申シ上ゲラレルノデアル。如何トナレバ、其ノ後段々ニ商業モ発達シ、種々ノ設備ガ出来、又ソレダケノ人間ガ生ジ来テ其ノ位置モ大イニ進ミ、此ノ商業会議所ノ如キモ政治ト相並立シテ行クトイウ場合ニ至ツタ。即チ明治六年ニ於ケル私ノ期念ハ少シモ間違ハヌトイウコトヲ今日申シ述ベ得ラルルハ此ノ上モナイ喜バシイコトデアル。左様ニ世ノ中ハ進ンデ喜バシュウゴザイマスルケレドモ、私ノ一身ニ付イテ此ノ爵位ナドヲ頂戴スルトイウコトハ前ニモ申シ上ゲマス通リ第一当初ノ精神ニ反スルノ懸念ニ堪エヌノデアリマス。商業ガ世ノ中ニ貴重セラレテ商売人ニ爵位ヲ授ケラルルトイウコトハ、頗ル好ムコトデハアルガ、容易ニ其ノ場合ニハ至ラレヌ。況ヤ己レ一身ガ其ノ区域ニ這イ入ロウ
トイウコト抔ハ夢ニダモ思イマセナンダノデゴザイマス。然ルニ如何ナル風ノ吹キ回シデアルカ、私ガ左様ナ位地ヲ拝受スルトイウ境遇ニ立チ至リマシタノ ハ一身ニオイテハ光栄ト申ス他アリマセヌガ、本志ニ取ツテハ大イニ悲シムベキコトデアルト申シ上ゲナケレバナラヌノデゴザイマス。若シ之ヲ私一人ノミヲ以テ論ズレバ、実ニ過等千万、甚ダ恐レ入ツタト謝サナケレバナラヌガ、世ノ中ノ商工業ノタメトスルナラバ私ハ之ヲ以テ満足トノミハ申シ上ゲ兼ネルトイウ考エデアリマス。何ゼナラバ私ハ此ノ商工業ノ有様ガ是ダケノ位地ニ進ンダカヲ是デ宜シイトハ思ウテ居ラヌ。未ダ厭キ足ラヌトイウヨリハ寧ロ大イニ不足シテ居ルト申サナケレバナラヌ。故ニ、己レ一身ヲ以テ論ズレバ実ニ過賞デアルト申サナケレバナラヌガ、商業ニ対シテノコトデアルトスレバ私ハ十分トハ申サレヌカモ知レヌノデゴザイマス。而シテ私ガ此ノ光栄ヲ荷ウニ付イテ、一身ハ第二ニ置キマシテ未来ノ希望ヲ申シ上ゲタイノハ、即チ此ノ商業会議所デゴザイマス。二十四、五年以前カラ見マスルト大イニ発達モシマシタ、力モ付キマシタ。世ノ中ニ重ンゼラレルコトモ多弁ヲ要スルマデモアリマセヌ。併シ悲シイカナ御互イニ未ダ此ノ商業会議所ハ天下ニ対シテ大イナル勢力ガアルトハ申サレヌノデス。此ノ
申サレヌトイウコトハ、単リ政事社会ノ人達ガ善クナイトノミハ申サレマスマイ。或イハ斯ク申ス渋沢栄一モ又コノ席ニ列セラルル諸君モ未ダ世ノ中カラ重キヲ置カレヌトイウ不足ハ自ラ顧ミネバナラヌト思ウノデゴザイマス。現ニ、此ノ間、井上角五郎君ガ私ニ申サレルノニ、東京ノ商業会議所モ兎ニ角ニ十一年頃ノモノニ比スレバ進ンダニ違イナイ。又其ノ力モ増シタニ違イナイ。併シ商業会議所ガ決議シタコトハ其ノ決議ニ種々ナ注釈ヲ付ケナケレバ世ノ中ニ通ラヌトイウ有様デアル。畢竟此ノ決議ニ注釈ヲ付ケナケレバ世ノ中ニ通ラヌトイウノハ商業会議所ガ世ノ中ニ対シテ充分ニ信ゼラレルコトノ出来ナイトイウ一ツノ証拠デアル。勢力アル議会トカ、或イハ其ノ他ニオイテモ極ク力ノ強イ会議ノ意見ヲ発表スル場合ニ、箇様ノ理由ニ依ツテ斯カル決議ヲシマシタトイウコトハ必ズ言ワヌ英吉利ノ国会デ箇様ナコトヲ決シタト言エバ、何事デモ世ノ中ガ注目スルトイウ程デアル。ソレ程マデ此ノ商業会議所ヲ進メナケレバナラヌ。貴下ハ随分年ハ取ツテ居ルガ、マダ老イ先キガナイトハ言ワヌ。ドウゾ今一層ノ力ヲ尽クシテ東京商業会議所ノ決議ガ理由ナシニ世間ニ認メラレル様ニシテ貰イタイト申サレマシタ。是ハ唯箇人ノ談話デゴザイマスガ、其ノ御希望ノ点ハ至極御尤デ、私
ガ此ノ商業会議所ヲソレマデニ進メタイノハ、当初カラノ考エデアツタト申シ上ゲルノデゴザイマス。但シ其処ニ至ラシメルニハ、渋沢モ老後ノ力ヲ尽クスデゴザイマシヨウガ、渋沢ノミナラズ満堂ノ諸君ガ一致シテ之ヲ進ムルヨリ外ナイト思イマス。日本現在ノ有様デハ或ル場合ニハ法律トイウモノニ、重キヲ置カナケレバナラヌコトガアルカモ知レマセヌガ、御互イニ智識ト才能アル人物ヲ引キ上ゲテ行クノガ第一番ノ勤メデアロウト思ウノデゴザイマス。前来申シ上ゲマシタ顛末ハ、渋沢栄一ガ此ノ社会ニ生マレマシテ六十一年ノ間ノ概略ヲ述ベ来ツタノデアツテ、諸君ニ向カツテ今日斯ク最モ感謝スベキ光栄ヲ荷ウニ至リタルノハ最初ノ意見ガ次第ニ変化シテ今日ニ相成ツタト申シ上グルニ過ギヌノデゴザイマス。孟子ノ言ニ「天下ニ達尊三ツアリ。爵一ツ。齢イ一ツ。徳一ツ。朝廷ハ爵ニ如クハ莫シ。郷党ハ歯ニ如クハ莫シ。世ヲ輔ケ、民ニ長タルハ徳ニ如クハ莫シ」ト。私ハ明治六年ニ官ヲ辞シマシタトキ、第一ニ爵トイウモノハ全ク身辺ヲ払イ除ケタ積リデアル。併シ商業界ヲ大事ト思エバコソ遂ニ希望セヌ爵モ頂戴スル場合ニナツタ。即チ其ノ達尊三ツノ一ツヲ得マシタ。是レハ商業会議所ニ対シテ私ハ満足シテモ商業会議所ハ満足セヌデゴザイマシヨウ。否、商業会議所ノ諸君
ハ之ニ満足セヌ様ニ希望仕リマスノデゴザイマス。斯ク申シ上ゲマスト、或イハ私ガ此ノ授爵ヲ不足ニ思ウカノ如キ語気ニ行キ渉リマシヨウケレドモ、私ハ 宿昔ノ期念ガ左様デアツタトイウノデ、此ノ恩命ハ厚ク感拝スレドモ最初ノ希望ニハ反シタトイウコトヲ述ベルノデアリマス。殊ニ年齢モ最早六十一歳トナリマシタカラ、此ノ上ハ第三ノ徳ヲ積ムコトヲ勉メタイト存ジマス。長々ト清聴ヲ煩ワシマシテゴ退屈デゴザイマシタロウト存ジマス。

前のページにもどる

pageTOP