東商で所蔵する渋沢栄一関連資料

渋沢栄一初代会頭の東京商業会議所辞任に伴う演説文(渋沢栄一65才)

1905(明治38)年2月13日の第21回臨時総会後の慰労会に渋沢栄一氏を招待し、感謝状を贈呈。その席での東京商業会議所辞任に伴う演説文です。



口語訳

男爵渋沢栄一君の演説
議長のお許しを頂きましたので、このような席から誠に失礼ではございますが、一言御礼の言葉を述べさせて頂こうと思います。久しぶりにこの席に着きましたのでちょうど一年ほど前、まだ私も健康でこの席に着いた時のことが思い出され、実に妙な感じが致します。まるで長い間里帰りをしていた住み込みの店員が再び勤め先に戻った際に、今まで居た故郷の家が我が家なのか、戻ってきた勤め先の方が我が家なのか、判別できない感覚に陥ったような気持ちです。従来からお目にかかった方々もご出席されていますが、中には発病後初めてお会いする方々も多くいらっしゃるのではないかと思います。不幸にして一昨年の十一月中旬に病気になり、当初その病気はそれほどの大病とは思ってなく、
なんとなく次の年の二月末まで経過いたしました。少し体調がよいと思うとしばしば旅行もしてみたりしていましたが、四月末になり帰郷した後肺炎にかかってしまいました。当初は、肺炎の診断を受けた時の医師は、すぐにでも回復するように説明してくれていたようですが、私自身はほとんどもうこれで皆様ともお別れする時が来たのかと感じる程でした。然しながら、漸く命も長らえて八月ごろからはずっと寝ている必要もないくらいに回復してまいりました。 ところが一年近く病気にかかっていたためか、又は普段から極めて不健康な生活が影響したのか分かりませんが、それからも完全に健康が回復したとは申し上げられず、そのためやむを得ず昨年末に、遺憾ではございますが、当商業会議所の議員を辞めざるを得ない状況に至ったわけでございます。まず皆様にお話しなければいけなかったのですが、私個人が懇意にさせて頂いています大倉喜八郎さんと井上馨さんのお二人にまずお話しをして、その後書面をもって提出致しましたところ、役員の方々から有り難いことに、再三再四にわたりお引き止めのお言葉を頂戴しました。私自身も、本心は辞職したいわけではございませんので、何とか身体に害がないのであればと医者にも相談し、自分自身でももう少し身体の調子を整えてみようかなどと思案してみましたが、この状態でこれまでのように会議所の事務などの仕事を継続するのであれば、今後の身体のことは保証しかねるという医師の判断により誠に残念ではございますが、最初に申し上げた通り辞職を再三にわたりお願いいたしました結果、
ようやく本日この書面を頂くという事に至った次第でございます。その経緯につきましては、あまりくどくどとここでご説明いたすまでもなく、皆様方はほぼ概略はお聞き及び下さっていることと思いますが、このように御丁寧な書面を頂戴します以上は、いちおうこの経緯をお話しさせて頂きたいと存じます。 いまさらながら、私にとってあまりにも褒めすぎとも考えられる感謝状を頂戴いたし、自身としてはこの会議所に功労がなかったにも関わらず、これほどまでに議員の方々は私を認め、功労があったと見なしてくださる。つまるところ、平素から此の会議所を愛し心において下さる皆様の厚い意志があってこういうことになったのだと思うと同時に、平素から変わることのない真心のこもったお付き合いに対して深く感謝申し上げます。このようにして、ここでお別れの言葉を申し上げますと同時に、私自身が思っている事をここで述べさせて頂くことは、まるで自慢話のように聞こえるかもしれませんが、なるほど、こういう考えでいたのだという事を、この会議所のために、最後に一言申上げておきたいと思います。振り返りますと私が官職に就いたのが明治四年から五年のことで、官職を辞めたのが明治六年です。その頃の世間の様子がどうであったかという事は、皆様の中にもご記憶の方もいらっしゃると思いますし、その後に成長なさった方にとっては随分昔の話になりましたが、当時商工業というものに対しては世間全般から非常に賤しく見られていた。このことは、これまでにも何度も繰り返し申し上げて参りました。当時の私の考えでは明治維新の改革は、単に政治上のみの革命ではなく、国全体の革命である。すなわち、法律や教育制度や文学などありとあらゆるものが全て変革致しました。なかでもその革命を機会に大きく改善をしなければならないのは実業であるという事を当時の関係者は十分認識していました。当時は部外者であった私もそのことは深く感じていました。といいましても、それを口にする人は当時多かったのですが、実際に自ら取り組もうとする人は非常に少なかったのです。不肖、私自身無学であるにもかかわらず、当時の商売や実業の教育とは・・・・大学でも実業的な教育はそれ相応にありましたが、
ほとんどは教育の精神が我々の希望する水準ではなかったため、本来の教育をなんとかして広めたいと希望すると同時に、ほかの方法で実業者の地位を高めていくにはどうすればよいのかをずっと希望していました。第一段階として考えたのが、つまりは皆さんのご決議により私が賜る書面にかかれている、明治十一年の商法会議所が出来たのではありますが、それは我々の共通する希望を実現したというよりは、ある理由によって政治社会がそれを誘導して実現したものであります。それから十数年後になってようやく我々の希望はいくらかは達成されていったのですが、丁度明治五・六年頃から条約改正の議論が外国との間で起こっていました。そしてそれらについては多くの調査も必要としていたのでしょうが、この国の国民性から出た考えに基づき改正される必要性があるということが、政治社会の人々の大いに注目する点でもありました。中でもその注目という点では、その人が自分の考えで注目しだしたのか、又は外の誰か心ある人が言ったのを聞いて注目しだしたのか、その辺の詳細は私がここで明言しようとは思いませんが、いずれにしてもこの東京のような都府に於いて は、是非とも商売人の世論というものが必要であるという声となり、遂に我々に商法会議所を設立させるに十分な後押しとなったものと考えてもよろしいかと思う次第です。私も勿論現在でも非常にそれほどの力もございませんけれども、その当時はなおさら世間での経験も少なく、まして実業界の事などはまったく修行もしたことはありませんでしたが、世間では政治や文学の発達によって本当の国力が増加すると考えられているけれど、本当はそれだけではなく商工業者として今後の地位や力を、そしてその時に設立した商法会議所は、今のように法律的に制定されているものと違い、いくらかの補助金と、残りは有志の人が十数人集まり出資し、発起人となって設立いたしました。それから数年後の
明治十六年に多少組織を変更し、次第にいくつかの実業の組合も作られてきたのを機会に、それまでの商法会議所の名称を商工会と改められました。その後更に二十三年経過し、憲法制定という大問題が起こる以前から、商工会の組織の有り方にも変更が必要ではないかという議論も起こり、その結果組織変更が必要であるとして、今日の商業会議所条例が発布されることとなったのでございます。その後さらに十四・五年を経過いたしましたから、当初補助金と有志で作り上げたのと、法律で組織し直して経過した期間とがほぼ同じ程度の歳月となりました。今日では、次第に基盤も固まり、人物もよくなってきて、その昔私共が思い描いていたよりも現実は一層進展してきたと考えられます。この点は誠に喜ばしいことで、特に昨年から始まった大国難に直面してもびくともせず、世界の大強国に対抗しても決して劣ることが無い程に強固になってまいりました。商工業が一体化し力を強めるということが、よくここまで進展して来たものだと我々自身驚くほどでございます。そしてこれは我々があらかじめ計画していたことが今貢献しているということよりは、我々が予測していたその予測が今に至って事実に基づいて証明されたのだと申し上げてよろしかろうと考えます。こうして、順を追って思い返してきますと、
実に喜ばしい限りで何ら不満を言うことは一つもありませんが、果たしてこれで満足していてよいのだろうかと疑問に思うことがあります。すべて人間は、たとえ憂える時でも憂えてばかりではよくないのと同じく、喜ぶ時も喜んでばかりで良いとは言えません。憂えるときにその憂えを克服するという事は一つの喜びでありますが、それはそれとして、又喜んでいるときもその喜びを憂えに変える何かが存在しないかどうか、同時に考えることが必要ではないでしょうか。確かに実業界の力はここまで発達してきました。そして整理もされてきました。しかしながら、実業者の皆様方が世の中で認識されている情況はこれで十分であるかというと、お集りの皆さんも全員これで十分とは思われていないと思いますし、私もそう思うにはやや抵抗があります。当然のことながらどこの国であろうとすべてが満足であるということはありまんが、これで例えば外国のドイツ・イギリス・アメリカなどの大国に比較してみて、力も知識も人格も全ての点で彼らに優れているのだということは、いくら強がってみても私には言えません。また世間一般から見て、この実業界がどのように見られているかと言うと、これも彼ら自身もそうですが、我々がはるかに優れているとは言い切れません。軍事面においては、実に昨年以来連戦連勝を続けて、日本の武力が諸大国に比べ優れていることはご存知の通りですが、日本の商工業も同様に
諸大国に比べてすじ道も正しく、力も強く、知識も多く、人物も優れているなどと言う賞賛はとても受けることはできないと思います。商売人はどうも信できないとか、実業者同士で切磋琢磨しようとしないとかいう良くない話はよく耳にすることではございませんか。私もこの会議所の運営に携わり始めて十一年程になりますが、ここにお集まりの皆様やそれ以前から様々な方がここに参加され努力されてまいりましたが、この首府である東京において、どれほど重要視され、どれほど大切にされているかという点を考えれば、まだまだ満足するには不十分であると言わざるを得ないと思います。従いまして、喜びは喜びとして、まだ不十分な点についてはしっかりと考えていかねばなりません。こうして病の為やむを得ず辞職させて頂く立場なのだからもう少し遠慮した話をしたらどうかとお叱りを頂くかもしれませんが、只喜びに終始するのではなく、同時に憂えるという気持ちもあるのだという事を、ここに一言述べさせて頂いたのでございます。実際の所、仮に私の体がまだ元気であれば、たとえお役に立てる仕事が出来ないとしても、自分から進んで辞職することはしないと覚悟を決めてこの会議所に勤めて参りました。不幸にして病のためについに辞職せざるを得なくなったのは、誠に残念なことこの上ありませんが、辞任を致しましても
この会議所という場所に対する私の気持ちは、これからもずっとこれまでと変わりなく抱き続けていきたいと思うのでございます。先程来申し上げて参りましたが、喜ばしい間にその喜びに憂えを繋ぎ、この憂えに対する心残りをここに述べさせて頂いた次第であります。「始めあるなし能く終りある少なし」と古人は言っています。すべての物事は、始めてからは必ず終わりを見据えて、最後には有終の美を飾るという事が人の最も重視しなければならない事であるという意味です。自分が直接関係する物事は当然のことながら、世間との関係でしなければならない事についても必ず「始めあれば終わり有り」という事を心掛けるよう、不肖ながら絶えず思っているのです。もしその途中に、いわゆる「倒れる」という事になればそれは仕方がないことではあります。しかしながら、まだ「倒れて止む」というところまで至っていないにも関わらす、当初からいくらかの勇気を出して取り組んで参った積りであるのにかかわらず、まだ本当の意味で有終の美を飾ったと申し上げることが出来ないまま会議所を去らねばならないという事なので、先程の言葉で言い換えれば「始めあらざるなし、能く終りあるなし」という事となり、ここにこの様な心のこもったご決議を頂戴いたしますのにもかかわらず、お受けいたしますのには恥じ入る気持ちでいっぱいでございます。しかしながら、又一方では、この未達成の部分については、一挙になし得るものではなく、誰かの言葉に「智者これを始め、能者練り・・・」という古語があったと思いますが、そもそも物事というものは、それを始めた人がその人だけですべて成功するとは限らない。始める人が居てそれを練り上げる人もいる。そして徐々に仕上がり、有終の美に至るのだというわけです。これは又先程の「始めあらざるなし、能く終りある少なし」という言葉を言い換えた一つの考えとも思われます。私は決して
「智者事を始める」の智者であるなどとは勿論思ってていませんが、ここに列席の皆様が「能者」であるということは、私は厚く信じて疑いません。果たしてそうであれば、仮に私が当初多少の微力を尽くしたといたしましても、それを引き継いで最終的にこの会議所の目指すところに至り、今まで述べて来たような有終の美を飾るのは、皆様の努力によって成し遂げ得る事であろうと思い、今ここに私自身が身を引くに当たり、ひたすら皆様を信頼してやまないのであります。従いまして今後とも本会議所の為にこの様にした方がよかろうと思うことがございましたら、どなたかのお考えに対して躊躇なく愚見を申し上げようと考えています。大変心のこもった感謝状を有り難く頂戴いたしまして、実は御礼を申し上げる言葉もないくらいでございますが、これまで私が抱いてきた気持ちの一端を一言申し述べさせて頂き、ご清聴頂きました次第でございます。

今この場をお借りして御礼を申し上げます。このたびは私の銅像をこの場所に設置したいと企画され、皆様がたのご連名の書類を有り難くお受けいたしております。何だか・・・とても恐れ多い気持ちで一杯ですが、そうかと言って今ここで御辞退をさせて頂くなどと申し上げたとしてご了承頂けるものなのかどうか、そしてそれが果たして礼儀に反するのではないだろうか、自分でも予想が出来ないほどではございますが、日頃から親しくさせて頂いている皆様のことでございますから、ここはひとまず皆様方のご意志に従う以外ないだろうと考えまして、ここに謹んでご好意に対する感謝を申し上げます。
原文解読筆写
男爵澁澤栄一君演説
議長ノ御許シヲ得マシテ此席カラ甚ダ失礼ナガラ謝辞ヲ一言陳述致サウト考ヘマスルデゴザイマス。久々デ此席ニ罷出デマシタノデ、何ヤラ斯ウ一昨年頃身体ガ健全デ此所ヘ出マシタ時ノ事ヲ回想シマスルト実ニ妙ナ感ジヲ起コスヤウニゴザイマスル。丁度長ク宿下リヲシテ居ツタ丁稚ガ再ビ主家ヘ帰ツテ、何ダカ是ガ我家カ帰ツタ方ガ我家カ自他ノ区別ヲ失ウ位ナ感想ヲ惹起シマシテゴザイマス。爾来時々御目ニ掛ツタ御方モ御出席デゴザイマスルケレドモ、又発病以来マダ御目通リヲ致サヌ諸君モ或ハ多イカト思ヒマス。不幸ニシテ一昨年十一月中旬、病ニ罹リマシタ。其病気ハ始メハ左程大病トモ思ヒマセヌデシタケレドモ、遂ニ
年ヲ超ヘテ二月ノ末マデ経過イタシマシタ。稍々宜シイト思ツテ旅行ヲ試ミマシタガ、其旅行先デ屡々発熱致スヤウナコトデ、遂ニ昨年四月下旬帰京シマシタ後ニ肺炎ト変ジマシタ、此肺炎ニ罹リマシタ際ニハ医者ハ見所ガアルト言ウテ呉レマシタヤウデスケレドモ自分デハ殆ンドモウ是ガ皆サマト御別レカト自ラ感ジタ位デアツタノデゴザイマス、然ルニ幸ニ漸ク余命ヲ保チ得ラレマシテ、八月頃カラ寝テ居ルト云フデハナイ位マデニ恢復イタシマシタケレドモ、ドウモ殆ンド一年近クノ病ニ罹リマシタ為メカ、或ハ平生ノ体格ノ極ク不健全ナル所カ、爾来健康ガ全ク復シタト申シ上ゲ兼ネル為ニ余儀ナク昨年ノ冬ニ至リマシテ遺憾ナガラ当商業会議所議員ヲ辞サネバナラヌ境遇ニ立至ツタノデアリマス、是ハ皆サマニ申上ゲネバナラヌノデゴザイマシタケレドモ、別シテ御懇意ヲ願ヒマスル大倉・井上両君ニ先ヅ御話ヲ致シ、続イテ書面ヲ提出致スト役員諸君ナドカラ尚再考セエト云フ、再三再四勧告ヲ頂キマシテ身ニ取ツテ誠ニ辱ジケナイ仕合セ、実ハ去ルニ忍ビヌノデゴザイマスカラ若シドウカ左マデ身体ニ害ガ無イナラバト考ヘテ或ハ又医者ニモ諮リ、再ビ自分モ我身体ヲ試ミルト云フヤウナ種々ナル思案モ致シテ見マシタガ、ドウモ悲シイカナ是迄ノ事務ヲ此侭継続シテハ到底オ前ノ身体ハ将来ノ健全ガ覚束ナイト云フ、詰リハ医師ノ判断デゴザイマスノデ止ムヲ得ズ、最初申上ゲタ所ヲ更ニ御願ヒセネバナラヌト云フコトニ相成
リマシテ再応再三願ヒマシタ末ガ、遂ニ今日ノ此書面ヲ頂クト云フ場合ニ至リマシタノデゴザイマス。モウ是等ノ事ハ殆ド冗弁ニ渉リマシテ、敢テ爰ニ陳述致サヌデモ諸君ハ略々御聞及ビ下サル事トハ考ヘマシタガ、斯ク御懇切ナル御書面ヲ頂戴シタト同時ニ一応此経過ヲ陳述致シ置キマスルデゴザイマス、唯今モ誠ニ身ニ取リマシテ過賞越美トモ考ヘル感謝状ヲ頂戴イタシマシテ、自分ノ身ハ此場所ニ功労ノナカツタニ斯ク迄モ議員諸君ハ私ヲ認メテ功労アリトナシ下サルカ。畢竟平生之ヲ愛シ、之レヲ憫ンデ下サル所ノ厚イ意ガ爰ニ至ツタト、別シテ平生ニ背カヌ所ノ御情誼ヲ厚ク謝シ上ゲマスル、而シテ爰ニ御別レヲ申上ゲマスルト共ニ何カ自分ノ思ウ事ヲ爰ニ陳述スル事ハ実ニ自負ノヤウニハ当リマスケレドモ、如何ニモ斯ウ考ヘテアツタト云フ事ヲ此御場所ノ為ニ一言最後ノ言葉トシテ申上ゲタイト考ヘマスノデゴザイマス、丁度私ガ官ニ居リマシタノガ明治四・五年ノコトデ、官ヲ辞シマシタノガ六年デアル、此六年頃ノ有様ガ如何デアルカト云フコトハ、中ニハ御記臆ノ方モゴザイマセウガ、実ハ後ニ御生長ノ方ニハ殆ンド余程ノ昔語ト相成リマシタガ、実ニ此商工業ト言フモノニ対シテハ総テノ方面カラ甚ダ賤シメラレタト云フコトハモウ是迄モ幾遍申上ゲタカ知レヌ位ニ私ハ記臆シテ居ルノデアリマス、其時ノ自分ノ考デハ如何ニモ明治維新ノ改革ハ、革命ハ殆ンド只政治上ノミノ革命デハナクテ国全体ノ革命デアル、法律モ改マリ、教育
ノ制モ改マリ、大学モ改マリ、殆ンドアリトアラユルモノ皆革マツタノデアル、尤モ其革命ニ強ク感触シテ大ニ改良ヲ図ラナケレバナラヌモノハ、即チ実業デアルト云フコトハ当時識者ハ論ジマシタ、私其識者タラザルモ尚ホ深ク感ジタノデアリマス、而シテ之ヲ言フ人ハ多カツタガ、其方ニ身ヲ托スル人ハ甚ダ少ナクアツタ、私モ勿論今日ト雖モ甚ダ微力ナモノデアリマスガ其頃ニ於テハ尚更ニ世ノ中ノ経験モ少ナイシ、殊ニ実業界ナドニ付テハ何等修メタ事モアリマセヌデスケレドモ心窃カニ思ウニ、斯ノ如クニ政治トカ文学トカ云フモノヽ発達ノミデ、国ノ真正ノ力ガ増スモノデナイト云フ事ハ実ニ深ク感ジマシタノデ、丁度其時ニ如何ニ是カラ先キヤツタラ宣カラウカ、勿論商工業者トシテ爾後相当ニ地位モ進メ勢力ヲ増スコトヲ務メンケレバナラヌト云フ事ハ、先ヅ事実問題デアルケレドモソレト同時ニ此方面ニ対シタ教育ト此方面ニ対シタ人格ヲ進メルト云フ事ガドウシテモ無クテハ往ケナイ、独リ商売人ガ富ミサヘスレバ夫レデ宜イトハ言ハレヌ、工業者ノ製作物ガ増セバ夫レデ宜イトハ言ハレヌ、丁度ソレニ適ウ所ノ教育、教育カラ受クル智識ト従ツテ生ズル人格ガ増シテ来ナケレバ往ケナイト云フ事ヲ深ク考ヘマシテ如何ナル手段ガ之ヲ増サシムルモノデアラウカト云フコトヲ頻リニ憂慮イタシマシタノデゴザイマス、不肖ナガラ己レノ無学ニモ拘ラズ、其時分ノ教育ノ仕儀ト云フモノハ多ク此・・・・・大学デモ実業的ナル教育ハ相応ニアリマシタケレドモ、殆ンド商売トカ実業トカ云
フモノニ対シテノ教育ハ、其精神ガ我々ノ希望スル如ク著シクナカツタ故ニ、此実業教育ヲドウシテモ盛ンニセネバ往ケヌト云フ事ヲ希望スルト同時ニ御互ニ実業者ノ位置ヲ高メルト云フコトハ、他ノ方法ニ依ツテドウカ工風シタイモノダト云フコトヲ希望シテ止マヌノデゴザイマシタ、丁度ソレラノ希望ヲ達セシムルニハ、或ハ一階梯トモ考ヘマシタノガ、即チ御議決ニナツテ私ニ賜ハル所ノ書面ニアル、明治十一年ノ商法会議所ト云フ此発端ガ実ハ我々共ノ深キ希望ト云フヨリモ、或ル理由カラ政治社会ニ於テ之ヲ誘導シタト云フ事実ガゴザイマス、ソレカラ十数年ヲ経テ漸ク幾分カ我々ノ希望ヲ達セシメタノデアリマスガ、丁度明治五・六年頃カラ条約改正ノ議論ガ外国トノ間ニ起ツテ居ツタソレラニ付テハ種々ナル調査ノ必要モアリマシタラウガ尤モ此国民ノ性質上カラノ希望ガ甚ダ必要ダト云フコトガ政治社会ノ人ノ大ニ注目スル所トナツタ、蓋シ其注目スルト云フコトハ、其人ガ自分ニ発見シタカ、若クハ有志ノ人ガ言ウタニ付テ考ガ起ツタノカ、其辺ハ私ノ爰ニ明言スルヲ好マヌ所デアリマスガ、何レニセヨ此東京ノ如キ都府ニハ是非左様ナ商売人ノ輿論ト云フモノガ欲シイト云フノガ遂ニ我々ヲシテ商法会議所ヲ組織セシムルト云フニ十分ナル助ケヲ与ヘラレタモノト申上ゲテ宜カラウト思フノデアリマス、而シテ其時組立テマシタ商法会議所ハ一方カラ幾分ノ補助ヲ与ヘルト同時ニ又有志ノ人ガ十数人打寄ツテ発起者トナツテ組立テル今ノ法律的ナル仕組デハゴザイマセヌ、ソレカラ数年ヲ経テ明
治十六年ニ聊カ組織ヲ変更シテ追々ニ各実業ノ組合ナドノ成立ツヲ機会トシテ今ノ商法会議所ト云フ名称ヲ変ヘテ商工会ト云フモノヲ組織サレマシタ、ソレデ二十三年マデ経過致シマシタ、憲法制定ト云フ大問題ノ起ル前カラ商工会モ是迄ノ姿デ宜シイカ之ヲモウ一ツ組織ヲ変更スル必要アリヤト云フ論ガ起ツテ遂ニ政府ハ之ヲ組織変更ノ必要アリトシテ今日ノ商業会議所条例ガ発布サレルニ立至リマシタノデゴザイマス、爾来最早十四・五年ヲ経過致シマシタカラ昔日ノ明治十一年ニ起ツタ有様ト殆ンド法律ニ依ツテ組織サレマシタ歳月ト同ジ程ノ月日ヲ重ネテ参りマシタシ、モウ今日ニ於テハ追々ニ其地歩モ固クナリ人物モ進ムト云フコトニ相成リマシテ、況ンヤ世ノ中ノ実業ノ機運ガ進ンデ参ルト云フコトニ付テハ其昔シ私ナドガ斯クアリタイト思ツタヨリモ事実ニ於テハ 尚ホ進ンダト申シテ冝イヤウニ考ヘマスルノデアリマス、此点ニ付テハ誠ニ悦バシイ事デ、殊ニ昨年以来斯ル大国難ニ際会致シマシテモ極ク潔イ言葉ニ依ツテ言ウナラバビクトモセズニ力ニ富ミ世界ノ大強国ニ抵抗シテ決シテ恥ヅル所ガナイト云フニ至ツタノハ実ニ斯ク迄モ一体ノ商工業ノ実力ガ進ンデ参ルモノデアツタカ、又事実其力ガ是程デアツタカ、我人共ニ驚ク可キ程ニ立至リマシタノハ決シテ私共ノ其当所ニ実業ノ発達ヲ計ツタト云フコトガ爰ニ貢献シタデハナカラウケレドモ希望ニ於テハ斯ル事ヲ予期シテ遂ニ其予期ガ爰ニ事実ノ上ニ証拠立テラレタルト申シテモ宜カラウト考ヘ
マス、斯ク数イ来ツテ考ヘマスルト実ニ喜バシイ次第デ、モウ是デ何モ不足ヲ申ス点ハ一ツモナイガ、唯是ハ喜ビノミニ終ルカト斯ウ一ノ疑問ガ起リマスガ、蓋シ物事ト云フモノハ、憂ヘル場合ニ憂ヘバカリニ帰スルモノデナイト同時ニ喜ブ時ニ喜ビバカリニ終ルモノトモ申サレヌト思ウ、憂ヘル時ニハ必ラズ此憂ヘニ打勝ツト云フ時ガ喜ビデアルガ又其喜ビヲ受ケルト同時ニ喜ブ時ニ又憂ヘルト云フ事ヲ合セテ考ヘナケレバナラヌト思ウノデアリマス、如何ニモ御互ニ 実業界ノ力ハ左様ニ発達致シタ、左様ニ整頓モシタト言ヒハスルモノヽ、併シ今日御互ヒ実業者ガ世ノ中ニ認メラルヽ有様ハ、実ニ一点ノ瑕瑾ガナイカト御尋ネニナレバ、満場諸君モ無イトイフ御答ハ出来マイト思フ、私モ無イト云フ答ニハ少シ苦シム、尤モ何処ノ国ニモ総テ満足ト云フコトハアリマセヌケレドモ仮ニ之ヲ或ハ外国ノ独逸デアルトカ英吉利デアルトカ亜米利加デアルトカ云フ国々ニ比較シテ見マスレバ、其力ト云ヒ、其智識ト云ヒ、若クハ人格ト云ヒ、決シテ彼等ヲ凌ギ総テノ点ガ彼ニ優ルト云フコトハ如何ニ強胆ニモ言ヒ得ラレヌト、私ハ憂ヒマスノデゴザイマス、而シテ又一般ノ有様カラ此実業界ガ認メラルヽ度合ガ如何ニト云ヘバ、是レ以テ直接ニ彼等其人ト我々ガ大ニ優ルト云フ事ノ言ヒ得ラレヌト同時ニ左様ニ重ク見ラレルト云フ事モ又均シク言ヒ得ラレヌデハナイカ、軍事ニ於テ実ニ昨年以来連戦連捷、日本ノ武威是レ揚ガルト同様ニ、日本ノ商工業ガ何レ
ノ点ニ対シテモ誠ニ道理正シイ、力モ強ヒ、智識モ多イ、人物モ優レテ居ルト云フ賞讃ハ受ケルコトハ出来ナイト思ウ、ドウモ信用ガ乏シイ、相共ニ争フ判断力ガ足ラヌト云フ、誹謗ハ互ヒノ耳朶ニ触レルコトガ多イジャゴザイマセヌカ、而シテ本会議所ノ如キモ実ニ不肖ナガラ私モ十一年カラシテ引続イテ経営致シタト申上ゲテ、敢テ憚ルマイト考ヘマスガ独リ私ノ苦念経営ノミナラズ御集リノ諸君又其以前カラ代ル々々輩出サレタ諸君ガ共ニ々々力ヲ尽サレタニ モ拘ラズ此首府タル東京ニ向テドレ程重ンゼラレ、ドレ程貴重セラレルカト云フ事ニ付テハマダ満足ト言ヘヌ点ガ甚ダ多イト言ハナケレバナラヌト思ヒマス、然ラバ今ノ喜ビハ喜ビトシテ、又一方ノ不足ト云フ点ハ大ニ考ヘナケレバナラヌト思ヒマスノデ、斯ル病ノ為メニ自分ガ止ムヲ得ズ此御場所ヲ御免ヲ蒙ムル位置ニアリナガラ右様ノ事ヲ申上グルハ甚ダ諸君ニ対シテハ余リ忌憚ナイ口上ト、或ハ御叱責ヲ受ケルカ知レマセヌケレドモ只喜ビノミニ終ラヌデ尚ホ憂ヘニ意思ノ存ズルト云フ事ヲ爰ニ一言陳述致スノデゴザイマス、実ニ私ハ若シモ身体ガ許シマスレバ決シテ例令御役ニハ立タヌデモ自身カラ御免ヲ蒙ラヌト深ク覚悟シテ此会議所ニハ勤メ来リマシタノデゴザイマス、不幸ニシテ病ノ為メニ遂ニ爰ニ御辞退ヲ申上ゲマスルト云フハ眞ニ哀情忍ビマセヌガ此辞任ト同時ニ此御場所ニ対シテノ観念ト云フモノハ例令身辞退ヲイタシマスルトモ、矢張リ同ジ
心ヲ以テ存続致シタイト思フノデゴザイマス、今モ申上ゲマス如ク喜バシイ間ニ又是ニ憂ヲ繋イデ此憂ヘニ関シテノ苦念ヲ爰ニ陳述スル次第デアリマス、古人モ「始メアルナシ能ク終リアル少ナシ」ト言ハレタ総テノ物事ハ始メ一カラハ必ラズ終リト云フ事ヲ考ヘテ、ソレデ此有終ノ美ヲ見ルト云フコトガ人ノ最モ重ンズベキ所デアルト云フ考ヘデ我一身上ノ経営スベキ事ハ勿論公共打交ツテ尽スベキ事モ常ニ始メアレバ終リアリト覚悟セネバナラヌト云フ事ハ不肖ナガラ絶エズ思ウテ居リマスノデゴザイマス、若シ其間ニ所謂倒レルト云フ者ガアレバ、是レ止ムヲ得マセヌケレドモ然ルニマダ眞ニ倒レテ止ムトハ申シマセヌケレドモ、私モ始メニハ幾ラカ勇気ヲダシタ積リデアル、所ガマダ今日ハ眞正ナル有終ノ美ト申上ゲ得ラレヌカト思ハレル場合ニ自分ハ御免ヲ蒙ルト云フノデアリマスカラ、甚ダ今ノ「始メアラザルナシ、能ク終リアルナシ」ト云フ語ニ恥ヂテ爰ニ斯様ナ御手厚イ御議決ヲ頂戴スルニモ拘ワラズ、自分デハ之ヲ拝受スルニ忸怩タルノ情ニ堪ヘマセヌデゴザイマス、併シ又一方カラ考ヘテ見マスルト既ニ此事ハ只一時ニ成就スベキモノデハナイ、誰ヤラノ語ニ「智者之レヲ始メ能者諫リ・・・・・」ト云フ古言ガアツタヤウニ覚エテ居リマス、凡ソ物事ハ其始メガ果シテ其通リニ其人ノミデ成功スルモノデハナイ、始メル人アリ練上ゲル人ガアル遂ニ漸次ニ有終ノ美ヲ見ル訳デアル、是ハ又「今ノ始メアラザルナシ能ク終リアル少ナシ」ト云フ事ヲ引延ベタル一ノ論ト思ハレルノデアリマス、私ハ決シテ智者事
ヲ始メルト云フ其智者タルコトハ勿論自カラ居ラレマセヌケレドモ、併シ爰ニ列席ノ諸君ガ能者タルコトハ私ハ厚ク信ジテ疑ヒマセヌ、果シテ然ラバ例令私ガ其始メニ多少ノ微力ヲ尽シタノモ遂ニ之ヲシテ十分ニ祖述シ完美シテ今希望スル如キ有終ノ美ト云フ事ハ諸君ノ御力ニ依ツテ或ハ達シ得ラルヽ事デアラウト爰ニ己レノ身ヲ退クニ付テ只菅諸君ニ信頼シ居ルノデアリマス、例令此場所ヲ辞スルモ未来共ニ此場所ヘノ関係ハ決シテ除キマセヌ、ソレデ未来ニ於テモ本会議所ノ為メニ斯クアレカシト思フ事ガゴザイマシタナラ何レカノ御説ニ対シテ愚見ヲ呈スル事ハ躊躇致サヌ考ヘデゴザイマス、甚ダ厚イ感謝状ヲ拝受致シマシテ実ハ御礼ノ申上ゲル言葉ニモ躊躇致ス位デゴザイマスガ、唯是迄ノ微志ノアル所ヲ一言申述ベテ清聴ノ濆シマシタ次第デアリマス

唯今此席デ御礼ヲ申上ゲマススル、今度自分ノ銅像ヲ此御場所ニ存シタイト云フ事ヲ御企テニナリマシテ、諸君御連名ノ御書付ヲ拝受致シマシテゴザイマス、何ヤラ・・・・・甚ダ恐懼ニ堪ヘマセヌケレドモ、是ハ今此所デ御辞退申スト申上ゲテ、ソレデ御許可ガアラウヤラ、ソレガ果シテ礼儀ニ叶ウヤラ自カラモ計リ知レヌ位デ、又ソウ御遠慮ノナイ諸君デアルカラ、是ハ先ヅ思召ニ従フヨリ外ハナカラウト考ヘマシテ謹ンデ御厚意ヲ感謝致シマス


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