口語訳
男爵渋沢栄一君の演説
議長のお許しを頂きましたので、このような席から誠に失礼ではございますが、一言御礼の言葉を述べさせて頂こうと思います。久しぶりにこの席に着きましたのでちょうど一年ほど前、まだ私も健康でこの席に着いた時のことが思い出され、実に妙な感じが致します。まるで長い間里帰りをしていた住み込みの店員が再び勤め先に戻った際に、今まで居た故郷の家が我が家なのか、戻ってきた勤め先の方が我が家なのか、判別できない感覚に陥ったような気持ちです。従来からお目にかかった方々もご出席されていますが、中には発病後初めてお会いする方々も多くいらっしゃるのではないかと思います。不幸にして一昨年の十一月中旬に病気になり、当初その病気はそれほどの大病とは思ってなく、
なんとなく次の年の二月末まで経過いたしました。少し体調がよいと思うとしばしば旅行もしてみたりしていましたが、四月末になり帰郷した後肺炎にかかってしまいました。当初は、肺炎の診断を受けた時の医師は、すぐにでも回復するように説明してくれていたようですが、私自身はほとんどもうこれで皆様ともお別れする時が来たのかと感じる程でした。然しながら、漸く命も長らえて八月ごろからはずっと寝ている必要もないくらいに回復してまいりました。
ところが一年近く病気にかかっていたためか、又は普段から極めて不健康な生活が影響したのか分かりませんが、それからも完全に健康が回復したとは申し上げられず、そのためやむを得ず昨年末に、遺憾ではございますが、当商業会議所の議員を辞めざるを得ない状況に至ったわけでございます。まず皆様にお話しなければいけなかったのですが、私個人が懇意にさせて頂いています大倉喜八郎さんと井上馨さんのお二人にまずお話しをして、その後書面をもって提出致しましたところ、役員の方々から有り難いことに、再三再四にわたりお引き止めのお言葉を頂戴しました。私自身も、本心は辞職したいわけではございませんので、何とか身体に害がないのであればと医者にも相談し、自分自身でももう少し身体の調子を整えてみようかなどと思案してみましたが、この状態でこれまでのように会議所の事務などの仕事を継続するのであれば、今後の身体のことは保証しかねるという医師の判断により誠に残念ではございますが、最初に申し上げた通り辞職を再三にわたりお願いいたしました結果、
ようやく本日この書面を頂くという事に至った次第でございます。その経緯につきましては、あまりくどくどとここでご説明いたすまでもなく、皆様方はほぼ概略はお聞き及び下さっていることと思いますが、このように御丁寧な書面を頂戴します以上は、いちおうこの経緯をお話しさせて頂きたいと存じます。
いまさらながら、私にとってあまりにも褒めすぎとも考えられる感謝状を頂戴いたし、自身としてはこの会議所に功労がなかったにも関わらず、これほどまでに議員の方々は私を認め、功労があったと見なしてくださる。つまるところ、平素から此の会議所を愛し心において下さる皆様の厚い意志があってこういうことになったのだと思うと同時に、平素から変わることのない真心のこもったお付き合いに対して深く感謝申し上げます。このようにして、ここでお別れの言葉を申し上げますと同時に、私自身が思っている事をここで述べさせて頂くことは、まるで自慢話のように聞こえるかもしれませんが、なるほど、こういう考えでいたのだという事を、この会議所のために、最後に一言申上げておきたいと思います。振り返りますと私が官職に就いたのが明治四年から五年のことで、官職を辞めたのが明治六年です。その頃の世間の様子がどうであったかという事は、皆様の中にもご記憶の方もいらっしゃると思いますし、その後に成長なさった方にとっては随分昔の話になりましたが、当時商工業というものに対しては世間全般から非常に賤しく見られていた。このことは、これまでにも何度も繰り返し申し上げて参りました。当時の私の考えでは明治維新の改革は、単に政治上のみの革命ではなく、国全体の革命である。すなわち、法律や教育制度や文学などありとあらゆるものが全て変革致しました。なかでもその革命を機会に大きく改善をしなければならないのは実業であるという事を当時の関係者は十分認識していました。当時は部外者であった私もそのことは深く感じていました。といいましても、それを口にする人は当時多かったのですが、実際に自ら取り組もうとする人は非常に少なかったのです。不肖、私自身無学であるにもかかわらず、当時の商売や実業の教育とは・・・・大学でも実業的な教育はそれ相応にありましたが、
ほとんどは教育の精神が我々の希望する水準ではなかったため、本来の教育をなんとかして広めたいと希望すると同時に、ほかの方法で実業者の地位を高めていくにはどうすればよいのかをずっと希望していました。第一段階として考えたのが、つまりは皆さんのご決議により私が賜る書面にかかれている、明治十一年の商法会議所が出来たのではありますが、それは我々の共通する希望を実現したというよりは、ある理由によって政治社会がそれを誘導して実現したものであります。それから十数年後になってようやく我々の希望はいくらかは達成されていったのですが、丁度明治五・六年頃から条約改正の議論が外国との間で起こっていました。そしてそれらについては多くの調査も必要としていたのでしょうが、この国の国民性から出た考えに基づき改正される必要性があるということが、政治社会の人々の大いに注目する点でもありました。中でもその注目という点では、その人が自分の考えで注目しだしたのか、又は外の誰か心ある人が言ったのを聞いて注目しだしたのか、その辺の詳細は私がここで明言しようとは思いませんが、いずれにしてもこの東京のような都府に於いて
は、是非とも商売人の世論というものが必要であるという声となり、遂に我々に商法会議所を設立させるに十分な後押しとなったものと考えてもよろしいかと思う次第です。私も勿論現在でも非常にそれほどの力もございませんけれども、その当時はなおさら世間での経験も少なく、まして実業界の事などはまったく修行もしたことはありませんでしたが、世間では政治や文学の発達によって本当の国力が増加すると考えられているけれど、本当はそれだけではなく商工業者として今後の地位や力を、そしてその時に設立した商法会議所は、今のように法律的に制定されているものと違い、いくらかの補助金と、残りは有志の人が十数人集まり出資し、発起人となって設立いたしました。それから数年後の
明治十六年に多少組織を変更し、次第にいくつかの実業の組合も作られてきたのを機会に、それまでの商法会議所の名称を商工会と改められました。その後更に二十三年経過し、憲法制定という大問題が起こる以前から、商工会の組織の有り方にも変更が必要ではないかという議論も起こり、その結果組織変更が必要であるとして、今日の商業会議所条例が発布されることとなったのでございます。その後さらに十四・五年を経過いたしましたから、当初補助金と有志で作り上げたのと、法律で組織し直して経過した期間とがほぼ同じ程度の歳月となりました。今日では、次第に基盤も固まり、人物もよくなってきて、その昔私共が思い描いていたよりも現実は一層進展してきたと考えられます。この点は誠に喜ばしいことで、特に昨年から始まった大国難に直面してもびくともせず、世界の大強国に対抗しても決して劣ることが無い程に強固になってまいりました。商工業が一体化し力を強めるということが、よくここまで進展して来たものだと我々自身驚くほどでございます。そしてこれは我々があらかじめ計画していたことが今貢献しているということよりは、我々が予測していたその予測が今に至って事実に基づいて証明されたのだと申し上げてよろしかろうと考えます。こうして、順を追って思い返してきますと、
実に喜ばしい限りで何ら不満を言うことは一つもありませんが、果たしてこれで満足していてよいのだろうかと疑問に思うことがあります。すべて人間は、たとえ憂える時でも憂えてばかりではよくないのと同じく、喜ぶ時も喜んでばかりで良いとは言えません。憂えるときにその憂えを克服するという事は一つの喜びでありますが、それはそれとして、又喜んでいるときもその喜びを憂えに変える何かが存在しないかどうか、同時に考えることが必要ではないでしょうか。確かに実業界の力はここまで発達してきました。そして整理もされてきました。しかしながら、実業者の皆様方が世の中で認識されている情況はこれで十分であるかというと、お集りの皆さんも全員これで十分とは思われていないと思いますし、私もそう思うにはやや抵抗があります。当然のことながらどこの国であろうとすべてが満足であるということはありまんが、これで例えば外国のドイツ・イギリス・アメリカなどの大国に比較してみて、力も知識も人格も全ての点で彼らに優れているのだということは、いくら強がってみても私には言えません。また世間一般から見て、この実業界がどのように見られているかと言うと、これも彼ら自身もそうですが、我々がはるかに優れているとは言い切れません。軍事面においては、実に昨年以来連戦連勝を続けて、日本の武力が諸大国に比べ優れていることはご存知の通りですが、日本の商工業も同様に
諸大国に比べてすじ道も正しく、力も強く、知識も多く、人物も優れているなどと言う賞賛はとても受けることはできないと思います。商売人はどうも信できないとか、実業者同士で切磋琢磨しようとしないとかいう良くない話はよく耳にすることではございませんか。私もこの会議所の運営に携わり始めて十一年程になりますが、ここにお集まりの皆様やそれ以前から様々な方がここに参加され努力されてまいりましたが、この首府である東京において、どれほど重要視され、どれほど大切にされているかという点を考えれば、まだまだ満足するには不十分であると言わざるを得ないと思います。従いまして、喜びは喜びとして、まだ不十分な点についてはしっかりと考えていかねばなりません。こうして病の為やむを得ず辞職させて頂く立場なのだからもう少し遠慮した話をしたらどうかとお叱りを頂くかもしれませんが、只喜びに終始するのではなく、同時に憂えるという気持ちもあるのだという事を、ここに一言述べさせて頂いたのでございます。実際の所、仮に私の体がまだ元気であれば、たとえお役に立てる仕事が出来ないとしても、自分から進んで辞職することはしないと覚悟を決めてこの会議所に勤めて参りました。不幸にして病のためについに辞職せざるを得なくなったのは、誠に残念なことこの上ありませんが、辞任を致しましても
この会議所という場所に対する私の気持ちは、これからもずっとこれまでと変わりなく抱き続けていきたいと思うのでございます。先程来申し上げて参りましたが、喜ばしい間にその喜びに憂えを繋ぎ、この憂えに対する心残りをここに述べさせて頂いた次第であります。「始めあるなし能く終りある少なし」と古人は言っています。すべての物事は、始めてからは必ず終わりを見据えて、最後には有終の美を飾るという事が人の最も重視しなければならない事であるという意味です。自分が直接関係する物事は当然のことながら、世間との関係でしなければならない事についても必ず「始めあれば終わり有り」という事を心掛けるよう、不肖ながら絶えず思っているのです。もしその途中に、いわゆる「倒れる」という事になればそれは仕方がないことではあります。しかしながら、まだ「倒れて止む」というところまで至っていないにも関わらす、当初からいくらかの勇気を出して取り組んで参った積りであるのにかかわらず、まだ本当の意味で有終の美を飾ったと申し上げることが出来ないまま会議所を去らねばならないという事なので、先程の言葉で言い換えれば「始めあらざるなし、能く終りあるなし」という事となり、ここにこの様な心のこもったご決議を頂戴いたしますのにもかかわらず、お受けいたしますのには恥じ入る気持ちでいっぱいでございます。しかしながら、又一方では、この未達成の部分については、一挙になし得るものではなく、誰かの言葉に「智者これを始め、能者練り・・・」という古語があったと思いますが、そもそも物事というものは、それを始めた人がその人だけですべて成功するとは限らない。始める人が居てそれを練り上げる人もいる。そして徐々に仕上がり、有終の美に至るのだというわけです。これは又先程の「始めあらざるなし、能く終りある少なし」という言葉を言い換えた一つの考えとも思われます。私は決して
「智者事を始める」の智者であるなどとは勿論思ってていませんが、ここに列席の皆様が「能者」であるということは、私は厚く信じて疑いません。果たしてそうであれば、仮に私が当初多少の微力を尽くしたといたしましても、それを引き継いで最終的にこの会議所の目指すところに至り、今まで述べて来たような有終の美を飾るのは、皆様の努力によって成し遂げ得る事であろうと思い、今ここに私自身が身を引くに当たり、ひたすら皆様を信頼してやまないのであります。従いまして今後とも本会議所の為にこの様にした方がよかろうと思うことがございましたら、どなたかのお考えに対して躊躇なく愚見を申し上げようと考えています。大変心のこもった感謝状を有り難く頂戴いたしまして、実は御礼を申し上げる言葉もないくらいでございますが、これまで私が抱いてきた気持ちの一端を一言申し述べさせて頂き、ご清聴頂きました次第でございます。
今この場をお借りして御礼を申し上げます。このたびは私の銅像をこの場所に設置したいと企画され、皆様がたのご連名の書類を有り難くお受けいたしております。何だか・・・とても恐れ多い気持ちで一杯ですが、そうかと言って今ここで御辞退をさせて頂くなどと申し上げたとしてご了承頂けるものなのかどうか、そしてそれが果たして礼儀に反するのではないだろうか、自分でも予想が出来ないほどではございますが、日頃から親しくさせて頂いている皆様のことでございますから、ここはひとまず皆様方のご意志に従う以外ないだろうと考えまして、ここに謹んでご好意に対する感謝を申し上げます。