※企業概要は受賞当時(2016年)の内容です。
●米国メーカーから販売代理権を剥奪された後、自社製品の開発に挑戦。自社製装置の開発には膨大な開発費を要し、資金繰り等経営は困難を極めたが、3年の歳月を掛け、初の日本製ハイエンド3Dプリンターの製品化に成功したこと。
●融点が200℃を超える材料に対応した装置の開発は不可能と考えられていたが、重厚長大産業向けに高温対応装置の需要拡大が見込まれると考え、同装置の開発に成功し、現在では世界の3Dプリンターの中心的プレーヤーに成長したこと。
日本製ハイエンド3Dプリンターを世界に
創業者で現社長の早野氏は1980年に大手商社に入社、1985年頃から社内で3Dプリンター事業の推進に携わるも、会社はほどなくして3Dプリンター事業からの撤退を決める。「日本の3Dプリンター市場に一石を投じたい」。そんな強い想いから、商社を退社後1996年に同社を設立した。
創業後まもなくして、米国の3Dプリンターメーカーの販売代理権を獲得したものの、1台5千万円以上するハイエンド3Dプリンターを購入する顧客は当時日本にほとんどいなかった。同社は破綻寸前まで追い込まれたが、自前で購入した装置を使った模型製作の受注(受託造形サービス部門)が増えてきたことで徐々に業績は好転していく。ところが、2001年に転機が訪れる。米国の3Dプリンターメーカーが突如、販売代理権の剥奪を宣告してきたのである。この時、受託造形サービスに特化したビジネスモデルで事業継続することも検討したが、「窮地は好機」と捉え、自社製装置の開発に挑戦する事を決意する。装置の開発には膨大な開発費を要し、資金繰り等経営は困難を極めた。さらに、ハードウェアの開発を委託した企業が撤退を表明するなど技術的な障壁も立ちはだかる中、東京都の助成金や東京大学の研究支援等を得ながら、3年の歳月を掛け、ようやく初の日本製ハイエンド3Dプリンターの製品化に成功する。
その後、材料開発にも成功し、装置の安定稼働もできるようになったが、その矢先にリ―マンショックが発生。さらに同社製品が特許侵害等の中傷や風評被害に遭うなどその後も経営の危機を迎えることはあったが、金融機関の支援も得ながら経営を継続してきた。そして同社は今、新たなステージへと移り出している。無謀ともいわれた融点200℃超の材料に対応した装置の開発に成功、販売も開始した。航空機等の重厚長大産業向けに同装置の需要拡大が見込まれ、この分野では世界をリードしている。既存装置のラインナップと併せ、現在では世界の3D プリンターの中心的プレーヤーに成長したが、日本製3Dプリンターの普及を進める創業者の挑戦はこれからも続く。
新型装置 AM-E3
スーパーエンプラ サンプル品
展示会の様子