新宿・地区別散策ガイド|新宿・歌舞伎町・西新宿

新宿・地区別散策ガイド|新宿・歌舞伎町・西新宿

日本一の乗降客数を誇る新宿駅周辺は、超高層ビル群・大ショッピングゾーン・大歓楽街と、日本一づくし。まさに、日本の文化・情報の発信基地となっています。

宿場町として発展した新宿

現在の新宿通り

現在の新宿は、新宿三丁目を中心に発展していますが、江戸時代は、甲州街道と成木街道(青梅街道)の追分(新宿三丁目の交差点)から大木戸まで、現在でいうと新宿一~二丁目に至る地域が宿場町、「内藤新宿」宿場町として発展した新宿として栄えていました。内藤新宿は、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿と並んで江戸四宿といわれたところですが、他の三宿に比べてほぼ100年後の1698(元禄11)年に開かれた新しい宿場町です。甲州街道は、幕府の直轄地であった甲府につながる街道で、有事の際の将軍の逃げ道となる軍事的な役割を担っていたことなどから、甲州街道の最初の宿場町は日本橋から遠く離れた高井戸でした。しかし、幕府の安定により商品流通や人馬の通行量も増えたことなどから、浅草の名主である高松喜六(たかまつ・きろく)ら5人の町人が、幕府に宿場設置許可をもらい開設しました。ここが内藤氏の領地で新しい宿場町、ということから内藤新宿の名がついたそうです。

1935(昭和10)年頃の新宿通り

大繁華街となった今でも、このあたりには、新宿御苑や花園神社、内藤家の菩提寺で、三日月不動像(みかづきふどうぞう)や閻魔像(えんまぞう)などの多くの文化財がある太宗寺(たいそうじ)、奪衣婆像(だつえばぞう)などがある正受院(しょうじゅいん)、時の鐘・やぐら時計のある天竜寺(てんりゅうじ)等、当時を懐かしむことができる伝統ある寺社仏閣等が点在しています。

昔は森林地帯だった歌舞伎町

1960(昭和35)年頃の歌舞伎町

歌舞伎町一体は、大正のはじめまで旧大村藩主の屋敷で、森林地帯でした。焼け野原となった戦後、ここに娯楽施設を含む新興文化地域をつくろうという計画が進められ、歌舞伎を上演できる劇場の建設が予定されていたことから「歌舞伎町」の名がつきました。
しかし、戦後の混乱と資金不足等から、この計画は実現しませんでした。そんな歌舞伎町開発に弾みをつけたのが1950(昭和25)年4月から3カ月間行われた東京産業文化平和博覧会です。博覧会の会場として使われた施設は劇場や映画館などに転用され、現在の繁栄の基礎ができました。落語等が楽しめる新宿末廣亭、ライブハウス、映画館、近年ではルミネtheよしもと等のエンターテイメント施設が新宿駅周辺に立地するのも、こうした歴史的背景から来ているのかもしれません。

現在の歌舞伎町

現在、歌舞伎町では、火災、不法労働者、風俗店、キャッチなどの悪いイメージを払拭するために、歌舞伎町商店街が中心となって「クリーン作戦」を展開しており、路上清掃や治安パトロールを実施しているほか、安心店舗情報等をホームページで紹介しています。また、2004(平成16)年5月には、「歌舞伎町シネシティ」をスタートさせ、映画館街の中心にある広場を「シネシティ広場」として、定期的にイベントを実施しているほか、各映画館のチケットの半券は、割引券として同地区内の飲食店等で利用することができます。

超高層ビル群・ミニ電気街、サラリーマン憩いの場「思い出横丁」

1958(昭和33)年頃の新宿駅西口 現在の新宿駅西口

西新宿は、東京都庁をはじめ、高さ100mを超える超高層ビルが約30棟林立する一大ビジネス街です。上層階には飲食店や無料の展望室を設けているところもあり、東京の夜景を一望できます。また、十二社碑(じゅうにそうひ)のある熊野神社(くまのじんじゃ)や成子天神社(なるこてんじんじゃ)等の寺社仏閣や含食塩重曹水の十二社天然温泉などもあります。そして、もう一つの顔が、カメラ・OA・家電専門店が集積するミニ電気街と思い出横丁。戦後の面影を残す思い出横丁は、やきとりのにおいが漂うサラリーマンの憩いの場です。

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東京商工会議所 新宿支部03-3345-3290