多角化経営で活路を拓く|柏原紙商事株式会社

多角化経営で活路を拓く|柏原紙商事株式会社

企業概要

企業名
柏原紙商事株式会社
創業年
1645年(正保2年)※設立は1884年(明治17年)
所在地
東京都中央区日本橋1-2-6
代表者名
柏原孫左衛門(取締役社長)
資本金
2億円
従業員数
47名
業種
パッケージ関連板紙卸売
HP

1.京都から江戸へ進出、多角化の道へ

取締役社長の柏原孫左衛門氏 柏原孫左衛門社長

柏原孫左衛門取締役社長にお話を伺いました。

■柏原家(柏屋)の経営手法

柏原家は江戸時代に屋号を「柏屋」といい、1645(正保2)年に初代の三右衛門が京都五条問屋町で京呉服や小間物の販売店を開業したことから始まる。その後、天和・貞享期(1680年代)に江戸の日本橋本町で呉服店を開業し、関西で仕入れた商品を江戸の店舗で売るという、当時の商人の理想だった「江戸店持京商人(えどたなもち きょうあきんど)と言われる形式を確立する。1700年代以降は、高級絹織物から庶民向けの着物である「木綿」の取り扱いが主となり、木綿問屋として急速に発展した。

■買収による多角化へ

1700年代後半に入り、1774(安永3)年に漆器店の黒江屋、1781(天明元)年に和紙販売店の松坂屋を買収。「一業専心」の老舗が多い中、柏屋では新たな事業を取り込みながら「経営多角化」による事業全体の安定化を図った。「モノ」にこだわるのではなく「時代の変化」に合わせる柔軟性を重視した経営手法により、様々な商品を扱っていたからこそ、結果的に現在に至るまでの長期間における経営存続が実現したと言える。

■時代を読み、主軸を移す

明治に入り、木綿と漆器の2つを事業の柱としていたが、1884(明治17)年に木綿問屋の一部で洋紙販売の「柏原洋紙店」を始めると、徐々に事業の主軸は紙事業へと移っていく。1916(大正5)年に、欠損が続いていた木綿問屋を廃業し、洋紙販売と漆器販売を経営の2本柱とした。その後、1964(昭和39)年から始めた不動産賃貸業が加わり、現在は紙・漆器・不動産が事業の柱となっている。

2.企業存続をもたらした3つの秘訣

京都の「柏屋」 京都の柏屋は期間限定で公開している

■別家制度による「資本」と「経営」の分離

江戸時代、多くの老舗が取り入れていた3つの制度が、柏屋の発展を支えた。まず一つが、初代が取り入れた「別家制度」。京都の本家が「資本」を、江戸の別家が「経営」を担う。歴代当主は基本京都に居住し、江戸は「別家」「番頭」に任せていた。別家はただ家業を守るだけではなく、必要があれば本家当主を諌めるなどの力を備える必要があった。実際に、養子として五代目当主となった源蔵は浪費癖の悪さを別家衆に諌められ、離縁されたという話も残っている。

■家法・店法による経営引き締め

享保期に、経営引締めと家業永続を守ることを目的に制定したのが「家法・店法」で、いわゆる家訓にあたる。五代目当主の時代、1736(享保21)年に出された「家内定法帳」が最も古く、その後何回か改訂されながら受け継がれてきた。中には、「利益に迷い不実の品々の仕入れをしない」等商売の道を説いたものや、必要な時は費用をかけるよう、商機を失わないための方策等が記されている。

■11回に及ぶ倹約令

柏屋では、経済情勢や火事による店舗焼失、多額の納税などを背景に、1796(寛政8)年から71年間で計11回もの倹約令を実施した。本家・別家関係なく、柏屋に関わる全ての人々が食事・衣類・交際費等の節約を行った。倹約令の実施期間は1回につき3年とされており、71年間の中で半分ほどが倹約令の期間にあたっており、厳しい経営環境を柏屋全体で乗り越える体制を作っていたことが分かる。

3.2つの経営危機を乗り越えて

■関東大震災からの再建

1923(大正12)年9月に発生した関東大震災は、日本橋地域にも甚大な被害をもたらした。柏原洋紙店は本店、倉庫、商品すべてが焼失し、取引先も大きな被害を受けたため売掛金の回収も難しい状況に陥った。仕入先からの焼失した商品代金の一部支払い免除や社員全員の営業努力などが奏功し、震災後、柏原洋紙店は順調に業績を回復。震災による損害を数年で回収することができた。

■第二次世界大戦からの復興

関東大震災からの再建を果たした後、第二次世界大戦が勃発。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で東京に黒江屋、同24日には大阪支店、5月には東京本店を次々に焼失するという大損害を受けた。しかし1946(昭和21)年2月に黒江屋が焼け跡でバラックを建てて営業を再開すると、12月に柏原洋紙店も業務を再開することができた。震災・戦災の被害は甚大なものだったが、社員一丸が試練に耐え努力したことで、二つの困難を乗り越えることができた。

4.「不易流行」で事業永続を目指す

本社ビル 日本橋一丁目の本社ビル

■「不易」と「流行」を両立させる

柏原家370年の商売を支えたのは、「不易流行」の考え方だ。商売にあてはめると、不易(=守るべきもの)は信用・品質・暖簾などであり、流行(=変えるべきもの)は新商品開発・販売形態・顧客開拓などにつながる。柏原家は、「京呉服」「小間物類」から始まり、「和紙」「木綿」「漆器」「洋紙」など、時代に合わせて主力事業が変遷を続けてきた。「不易」である歴史と伝統を守りながら、「流行」である革新を繰り返しながら、事業永続を目指している。

■12代目当主として

子供のころから、祖父や父に家業を継いでほしいと言われていたので、経営者になるという意識はあった。当社に入社する前に自動車会社に就職し、社会人としての基礎を学んだ。当社入社後は、さまざまな部署を回りながら、営業以外のすべての業務を経験した。4年前に11代目である実父が他界し、「孫左衛門」の名を受け継ぐことになった。社長就任後は、基本的には先代までのやり方を踏襲しているが、チャンスがあればこれまでとは違った分野にも投資し柔軟に対応したいと考えている。

■日本橋で商売する意味

日本橋という地域は、和紙の紙問屋の集積地で、問屋同士のつながりもかなり強いと感じている。日本橋がひとつのブランドにもなっており、この地域で長く商売を続けることができていることは素晴らしいことだと思う。地域のつながりも大切にしていきたい。

(取材日:平成27年10月30日)